昨日はアトリエで、たまっていた事務仕事をして、よしことゆうたに会いに行った。
よしこは結構消耗したから、回復に少し時間がかかるかも知れない。
あかちゃんは可愛くて、いくらでも見ていられる。
すぐに時間が経ってしまう。
よしことゆうたが見せてくれているものによって、
僕自身、また新しい世界に入って行く。本当に不思議だ。
ゆうたが産まれて確実に何かが変わった。
僕の場合、自分の生の深まりが直接、教室の場に反映される。
逆もそうだ。教室で感じる世界が日常を深めて行く。
生きているのが面白い。
2、3年前とも制作を見る目は全く変わっている。
多分、一生変化して行くのだろう。
出産に向けて、たくさんの方から励ましのお言葉を頂いていた。
直接、ご連絡出来ていなくて、申し訳ないが、
多くの方がブログを読んで下さっているようで、嬉しいメールが届いている。
ありがとうございます。
家に帰ってニュースを見ると、
ブータン国王が来日されているとのこと。
ブータンは多くの文明とも、アジア諸国とも異なり、
物質の豊かさばかり追い求めるのではなく、国民の幸福度を基準として、
国づくりをして来ているという。
すばらしいことだ。日本も見習うべきだろう。
多くの国が西洋化する事によって、幸福を失った。
何故だろうか。
何故、物質の豊かさと幸福とが反比例するのか。
お金を例にとろう。
お金を持つと、物事が容易になる。お金で交換すれば努力しなくても出来る。
この容易になる、努力しなくなるというのが曲者で、
簡単なものに、便利なものに思いはこもらない。
簡単になれば、生命自体も簡単な存在になる。
実は困難こそが、深い世界を見せてくれる。
例えば、人が亡くなる。
その人との関係が浅いものであればある程、死は容易に受け止められるだろう。
簡単とはこのように関係が浅いことを意味する。
だから、関係が深ければ、悲しみも傷も深く、受け止め、乗り越えるのも困難だ。
でも、その困難が僕達に見せてくれる豊かさは他ではかえられない。
深い悲しみは自己を純化し、無駄なものを削ぎおとしてくれる。
本当にきれいなものを見せてくれる。
人は失うことによって、得られるものが多い。
困難を避けていては本当の世界は見えて来ない。
物質の豊かさを得るのに、たくさんの技術が必要だった。
この技術をのみ、この世界は価値とし、能力とした。
このままでは幸福になど絶対になれない。
幸福になる力そのものも価値であり能力であると認めることだ。
幸福を運だと勘違いしてはいけない。
黙っていてどこかから転がってくるのが幸福ではない。
幸福とは見出すもの。努力によって深めて行くものだ。
どんな場所にも状況にも幸福は存在する。
見付けだす感覚の力を磨くことだ。
何が言いたいのかと言うと、
やっぱりダウン症の人たちのことだ。
アトリエの場にある幸福度はブータン以上だと自負している。
彼らが幸福を生きる能力をそなえているからだ。
このような価値にも学ぶべきだ。
もう一つ。
先日、僕達も特別研究員として所属している多摩美の、
芸術人類学研究所から、会員向けの冊子をお送り頂いた。
それを読んでいて、編集後記にスタッフの方の書いておられる文章について。
福島から排出された放射性物質の量から計算すると、
それがこの地上から消えてなくなるのに数万年の歳月を要すると、
その方は続けてこう書いておられる。
数万年後の人類が振り返ったとき、私達の文明をどう思うだろうかと。
負の遺産だけを残した愚かな時代として振り返るだろうと。
いつもお世話になっている方に申し訳ないが、
仲間としてあえて言わせていただく。
黙って、放っておいて数万年先に人類がいるとお思いだろうか。
何もしないでぼーっとしていて、何とかなるだろうと、
いつか誰かが愚かだったと回想しているだろうと。
その様な危機感とリアリティの欠如が、このような問題を生んだのではないか。
その様に言葉のうえで記号化して世界を見ていると、
数万年後に振り返る誰もいなくなっているのではないか。
これは現実であり、我々は今、責任を持って人類の生き延びる道を模索している。
大きな目で物事を捉えると言うことと、危機感の欠落を混同してはならない。
多分、何気なく書いたのだろう。
この様な大きなテーマは何気なく書くことではない。
あえて、外からではなく仲間として言わせていただいた。
気を悪くされないことを願う。
楽天的とかプラス思考と、希望を持ち続けることは違う。
しっかり危機感も責任感も持って、クサいものにふたをせず、
真剣に深く生きていきたい。
挑む姿勢が出会うものの深さを決める。
同じ現実でも、そこから何をもらうのかは人によって違う。
幸福はどれだけ深く生きるかにかかっている。
人は幸福になり、人を幸福にする責任がある。