悠太はとても元気。よく食べるので、大分ふとってきた。
夜は僕の腕をギュッと握って、見つめてくる。
木曜日は妹が来て悠太をダッコしてくれた。
いつか、夏に実家へ帰った時、妹と2人の子供がピッタリくっついて眠っていた。
その姿は微笑ましかった。おおらかな、「家族」を感じた。
それから共働学舎時代にお世話になった、まことさんも来てくれた。
朝、いきなり電話で「おーい、オレ、今どこにいると思う?」
「まさか、近くまで来てるの?」
「一応、母親の身体に負担かけたくないからさあ」
「まことさん、人に気をつかえないでしょ。いいから早く来てよ。」
という訳で。
でも、本当はずっと心配してくれてて、
突然と見せかけて、わざわざ時間をつくってくれたに決まっている。
そんな人だ。
今、朝このブログを書いている。
昨日は絵の具の準備をしながら、前回の作品を見ていた。
みんな、使う色が変わって来たなあと思う。
この前、音楽の話をしていたら、ある女性シンガーの話題になった。
僕も結構好きな人だ。
民謡(この言葉はあまり好きではないが)出身の人だが、
現代の歌を歌っている。
民謡でも名人だったと言う。
話していたのは、その人の現代の歌には魂が感じられて、
本当に凄みがあるのだが、案外、お得意の民謡を聴いても、
その感動はやって来ない。
僕からすれば、民謡にはそんなに魅力が無い。
話していた人も、現代の歌の方が、声に力があるとの感想をもらしていた。
面白いなあと思う。
僕なりの答えがある。
多分、民謡と違って現代の音楽は、彼女にとって自然には歌えない。
歌い易くもない。努力も必要だし、それ以上に、
民謡を捨てて、新しい表現をする事への葛藤も違和感もあるはずだ。
この葛藤や違和感、あるいは矛盾というものが、
とても重要で、それを避けずに見つめた時、本当の表現が生まれるのではないか。
よく、民族アートや、音楽や、芸能に対して、
それがその人達の本当の伝統ではなく、西洋化された見せる為のものになっている、
と批判する人がいる。だからつまらないのだと。
僕は逆だと思っている。
そういった民族の表現は他の文化とぶつかった時にこそ、何かが生まれる。
多分、西洋化されてつまらなくなったのは、
伝統を否定したからではなく、葛藤が無くなったからだろう。
このブログでも、様々な対比を書いて来た。
自然と文明だとか、言葉と言葉を超えた経験とか、
ダウン症の人たちと自閉症の人達とか。
僕は比較はしたが、どちらだけが正しいとは言って来なかった。
大事なのはその間を繋ぐこと。
僕はダウン症の人たちを尊敬している。
だが、自分が彼らと一体だとは言わない。
むしろ彼らと、この社会とを繋ぐこと、対話すること。
今、矛盾があれば、向き合うべきだ。
違いは無いと言ってしまえば楽だが、それは違う。
共働学舎にいたときもそうだったが、僕は大切なものを大切にしていきたい。
その為には同化してはならない。
間、境界、はざまこそが大切で、ある意味で矛盾に引き裂かれ続けることが、
誠実に生きることではないか。
エコロジーも宗教もヒッピーも、何か良い主義の人達も、
欠けているとしたら、この矛盾に向き合わないところだ。
人は正しいだけの場所にはいられない。
自分達だけは正しいところにいて、他の人や社会は間違っているという、
見方は誤りだ。
すべては繋がっていて、僕達はその中の一員だ。対話こそが必要だ。
矛盾を引き受け、はざまを生きよう。
何度も書いたが、クサい物にフタではいつもまで経っても解決しない。
僕が見ている20代の人達でも、もう一歩のところで自分と向き合わない。
悲しみや、怒りや孤独を恐れて、誤摩化そうとする。
悲しみを超えたければ、悲しみと向き合うしかない。
孤独を超えるには、真っ正面から孤独と向き合っていくしかない。
私達は、逃げたり避けたりして、向き合わなかったものに、
生涯つきまとわれ続ける。
何度も何度も、それは姿を変えてやってくる。
だから、思い切ってフタを開けて、なかみを見てしまおう。
よし、おまえと最後まで付き合ってやろうという態度を持とう。
育児が大変だという人は多い。
僕も大変だとは思うし、自分で出来ているともとても思えない。
ただ、みんな、何でも大変になってしまうのは、
これまでの自分やこれまでの生活を捨てられないからだ。
新しいものが来たら、それに合わせて、自分も新しくなればいい。
僕自身も最近は眠る時間が短くなったが、
そうすると長く寝るものだと言う思い込みは消えた。
そうやって変わって行くのが生きていくことだと思う。