以前、こんなようなことを書いた。
制作の場において、こころの深いところに触れていると、
時に強い怒りや悲しみをぶつけられたり、ケンカしたがったり、
逆に恋愛感情をもたれたり、父性や母性を求められたりする。
それは、どこかで満たされなかった感情や、
解決出来なかった出来事の再現であって、そこを見極めなければならないと。
だから、スタッフは何者でもないのだ。
何者でもない事によって、その時にその人に必要な何者にもなれる訳だ。
また、逃げて向き合わなかったテーマに追いかけられるとも書いた。
つまり、人はくり返す存在だ。
よく、間違ったことをくり返す人や、恋愛で同じ失敗をくり返す人が居る。
まわりの人は、また、と思う。
でも、実はそれは悪いことばかりではない。
そもそも、人はくり返す。反復する。
同じことをくり返すことで、少しづつ自分の中で吸収し乗り越えていく。
だから、繰り返しを嫌ったり、恐れたりする必要はない。
むしろ、つまらないくり返しや、悪いくり返しを、
良いくり返し、よい反復、よいサイクルに変えていくことだ。
人はくり返すと言ったが、もっと言えば生物はくり返す。
世界はくり返すのではないか。
なんの為にくり返しや反復があるかと言うと、
例えば人は気持ち良さや、美味しさや、快感を身体に記憶させることで、
生命を循環させて来たからだ。
人は不快なものを避ける、痛いことを嫌う。
なぜなら苦痛は生命を傷つけるからだ。
生物は食べて繁殖して死んでいく。それはくり返し反復される。
それには気持ちがいいと言う記憶が刻まれている。
反復は生命にとって不可欠で重要なものだ。
制作する環境を創るという、私達の仕事もここに重点がある。
僕は人生の中でどんな小さな時間でも、
一人一人に良い経験や記憶を刻んでもらいたいと思っている。
その時間が次の場面で反復されるからだ。
昔、小さい子供と合宿のようなことをやっていた時、
僕が質の高い経験や道具ばかり提供するので、
ある人にそんな小さい記憶の残らない時にそこまでする意味はない、
もっと大きくなってからでいいと言われた。
それは全く逆だ。
記憶がないから大事なのだ。記憶がないとは無意識と言うことだ。
意識は自分でコントロール出来る。
記憶も、あれは良かった悪かったと自分で判断出来る。
でも、記憶のない時期や、無意識に入ったものは、
その人間の根幹を作っているにもかかわらず、自分ではどうすることも出来ない。
だからこそ、良い経験を刻む必要がある。
道具もそうで、分からない時に質の高いものを使うべきだ。
分かる様になったら、むしろ悪いものでも活かすことが出来る。
よく子育てでも教育でも、抱き癖とか甘え癖とか言う人がいるが、
その様なものはないと思う。
僕自身も学生達に対して甘いと言われることがあるが、
いつまでも甘えてくる人はいない。
甘えたいと言うことは、何か理由がある。
その時に甘えさせなければ、いつまでも成長出来ない。
いつまでたっても甘えているという場合は、
本当にしっかりと甘え切れなかったのではないかと思う。
大事なのはタイミングだ。
どんなに良いことも、それが必要な時期に行われなければ全く意味がない。
甘えさせるから、成長しないのではなく、
必要な時期にしっかり甘えさせなかったから、いつまでもひきずる。
厳しさもそうだ。厳しくするなんて、一瞬で出来ることだ。
それですぐに伝わる。下手なタイミングで厳しくしても、
いくら時間をかけても、本人の中には何も入って来ない。
これも、以前書いたが、絵の中に同じモチーフがくり返し、
反復されると言うことについて、進歩がないと見るのは誤りだ。
むしろ、良い経験や心地良さを刻むこと、
良いサイクルに入っていることを喜ぶべきだ。
くり返すこと、反復することで、そのテーマが自分のものとなる。
良いものを知るともっと知りたくなる。
良い経験をすると、もっと深めたくなる。
良い人に会うともっと会いたくなる。
人にやさしくされれば、人にもやさしくしたくなる。
テレビである写真家が、少し前から良い写真しか撮れない、
何を撮っても傑作になってしまう。
下手に出来なくなってしまったと語っていたが、
それは本当に自分の奥深くに経験が刻まれた結果だろう。
反復はとても大切なものだ。
前回、調和について書いた。
調和も再現や反復なのではないか。
キリスト教では、はじめに言葉があったと言うが、
例えば始めに調和やバランスがあったとする。
それを宇宙も自然も人も、くり返しなぞり、反復する本能があるのではないか。
昨日、プレのクラスを見ていて、みんなの楽しそうな様子が、
あっ数年前にもこんな場面があったなと感じた。
みんなでよい環境を創ろう。よい循環を創ろう。