お昼頃から、よし子とゆうたがアトリエへ来ることが増えた。
ここで僕と会うことをおぼえてきたのか、
ゆうたは僕の顔を見ると微笑みかけてくる。
遊ぶ時間も長くなってきた。
やさしい、やさしい、本当にいい子だ。
前回の水曜日のプレは、長く通って来たイサ(関川君)の最後の日だった。
あきさんは手紙を書き、はるこさんは得意の折り紙を作り、
ゆうすけ君は歌をうたい、だいすけ君はやさしくみつめていた。
それぞれが深い愛情を持って、見送っていた。
毎回、凄いなあ、絶対分かっているんだなあ、と感じさせられることは、
それぞれが自分の役割を知っているところだ。
ゆうすけ君は彼らしくふるまい、あきさんはあきさんらしく。
それぞれがバランンスよく、お互いの持ち味を発揮して、
まるでイサに「私達はこんなだよ」と伝えているように。
あきが出る時ははるこが見守り、はるこが出る時はあきが見守る。
自分の役割を知っていると言うことは、
場の中で、全体の中での自分の位置が確認出来ているということだ。
これは僕がイサに場を見る時に必要なこととして伝えて来たことでもある。
そこを彼らはみをもって示していた。
今、この時代に必要なことでもある。
環境や資源や、様々な争いの問題も、原子力の問題も、
すべては人がこの世界の中での自分の位置を忘れたことに原因がある。
動物も植物も、全体の中での自分の位置からズレることはない。
さまざまな地域の先住民はより自覚的に、全体の中での位置を知っている。
このアトリエも社会の中で役割や、必要とされる部分がなければ、
存在する意味がない。
何事も客観的に見ることが大切だと書いてきたが、
それは全体を見る視点を持つためでもある。
ただ、良い場所があってそこだけが、良ければいいのか。
こんな時代だからこそ、真剣に考えて行くべきだ。
どんな時でも可能性を示し、希望を伝えていくこと。
東京のアトリエは、作家たちのこころや魂を保護する場所であり続けて来た。
それは、どんな時でも必要な要素ではある。
でも、これからはこころや魂の問題以上に、
身体や物質のことが問題になってくる可能性がある。
安全や安心がない中で、どう選択していくのか。
例えば、放射能のことでも、このままみんながここに居て良いのか。
それから、かなりの可能性で首都に地震が来る。
先日も遠方から通われている保護者の方が、
「来る途中で地震があったらどうしようと思って」と仰っていた。
災害時用の道具を鞄に入れて、アトリエまで来ているという。
こんな状況の中で、みんなが安心出来るのか。
勿論、この場に入ったら、最善をつくすのが私達の役割だ。
ただ、これからは一人一人が、真剣に考えて行動しなければいけない。
私達も東京でのアトリエと同時に、
三重での環境づくりもすすめていく時だと感じている。
その上でどんな時でも希望を持とう。
この場で出来ることは最大限にやっていく。
ここに人が居る限り、どんな形でも続けてはいくつもりだ。
イサが最後の日だった週の月曜日は、
4月から来てくれる予定のゆりあが最初の見学。
イサにもゆりあにも、少し離れたところから教室を一度、見てもらった。
僕はこの時間を大切にしている。
時には離れて見てみること。
それから、一番最初は見学すること。
何故かと言うと、自分が場に入ってしまうと、一人一人は見えても、
場の全体が見えなくなるからだ。
イサにもゆりあにも、全体を見ることを伝えて来た。
その視点を養うためには、まず離れて見てみること。
入ってしまっては見えなくなる。
僕やよし子なら場に入っても、全体を見ることは出来る。
でも、最初は難しいだろう。
全体を見るとは、まんべんなくみることではない。
この人を見て、次にこの人をみてと、配分することでもない。
1人を見ることが全体を見ることであるような、見方。
お話ししていても、言葉を投げ合っても意味はない。
背景を見ること。
全く意味のない会話にみえて、響き合っていたり、
意味深そうでも、こころが全く動いていないそんな場面はよくある。
大事なのは背景だ。後ろで何が動いているのかだ。
「場」全体を見ることで、1人の人がより深く見える。
その人の答えを他の人が持っていたり、
その答えが予想もしなかったところから飛んできたりする。
どんな人にも、ものにも役割があり、その役割は全体の中で決まる。
日常の中でも、狭い視野でしかものが見えなくなっている人がほとんどだ。
全体を見る感覚が、これからの時代にも必要になってくる。
全体が見えてくると、様々な困難も、より深い次元にいくためのステップに見える。
すべてのことに意味が感じられる。
人に対してもやさしくなれる。
全体が見えてくると、自分はカメレオンのように、
環境に溶け込んでくるから、身が軽くなって何でも出来る。
自分が大きくなるとものが見えなくなるから、
よく見えるようになるためには自分を小さくすること。
そうすると感覚も研ぎ澄まされて、
透明な水のようになる。
全体を見る感覚はいつしか、自身が全体そのものという冴え渡った感覚をうむ。