最近は天気予報がなかなか当たらない。
今日もちょっと変な天気だった。
本当は少しセンチメンタルな内容で書きたいテーマがあるのだけど、
どうも今は違うのかも知れない。
今日も場の話だ。
繰り返すが絵は僕達にとっては目的ではない。
過程が正しければ良い作品は生まれる。それは結果に過ぎない。
ただ言えるのは高い質を持った作品が生まれていないのであれば、
プロセスに間違いがある、ということだ。
ここを弁えないで仕事をしている人が多いのであえて書いている。
さて、場にはそれ以上に大切なものがある。
前回も書いたように、一つの場において、一人一人が生ききるということだ。
長年、場と言うものを生きて来て、
場が素晴らしいと思う部分は、人の尊厳が現れるところだ。
人はそのままの姿が一番美しく、そして尊厳に満ちている。
自分の尊厳を奪ってはいけないし、まして他人の尊厳を奪ってはいけない。
場から見るなら、外の世界は嘘にまみれている。
媚び、諂う人間はそれによって自分が得をしようとしているのだから、
自分で自分の尊厳を奪ってしまっている。
地位も名誉もお金も、いざとなったら何の役にもたたないことを忘れいる。
いくら誤摩化しても場では見えてしまう。
立場が偉い人を恐れる人が多いが、それも自分が得をしたいからだ。
自分が何も貰う必要がなければ、誰のことも恐れることは無いだろう。
持ち物で自分を語り、立場で威張って見せているだけの人間に、
媚びるということは、たかって生きて来た証だ。
それよりも尊厳と言うものは立っていただけで漂っている。
絵でもそうだけど、1本の線だけで決まってしまう。
これからの時代、これまで通用して来た様々な道具が使えなくなって行くだろう。
色んなものを失って行ったとき、その人がそのままの姿で、
裸でその場に立って尊厳を持ち続けられるか。
場においては、上っ面の誤摩化しは全てはぎ取られる。
誰がする訳でもなく、場がそうするのだ。
威張っている人ほど惨めな姿が曝されるだけ。
弱くても素直であれば場から愛され、可愛がられる。
化けの皮を剥がされると言うよりも、最初から裸にさせられてしまう。
そこであたふたと逃げ回る惨めな人をこれまで、何人見て来ただろう。
ここにいる人達の方が遥かに立派なことは見てみれば一目瞭然だ。
だから場は本当の意味で平等だと思うし、
平等はなかなか怖いですよ、と言いたい。
場には厳格な掟がある。
僕はそれを忠実に守って来た。
作家達を見ていても、時に誤摩化したり逃げようとしてみたり、
僕達と変わらない姿を見せたりもするが、
最後のところで素直に前に進む姿は素晴らしい。
ここではみんなが場の仕組みをしっているし、
どうすれば人や自分が輝くのか分かっている。
見ていて人間と言う存在は美しいな、素晴らしいな、凄いな、
と思える場面が沢山ある。
自然の中で、ただ裸で何も持たずにその場に立っている姿。
自分の全てを賭けて一つの行為を行う。
尊厳に満ちた裸の存在同士が、全身でやり取りする。
響き合う。
相手を感じて、お互いを気持ち良くしようとする。
感じ合う。
今何のためにここにいるのか、感じてみよう。