2015年12月14日月曜日

厳格な掟

最近は天気予報がなかなか当たらない。
今日もちょっと変な天気だった。

本当は少しセンチメンタルな内容で書きたいテーマがあるのだけど、
どうも今は違うのかも知れない。

今日も場の話だ。

繰り返すが絵は僕達にとっては目的ではない。
過程が正しければ良い作品は生まれる。それは結果に過ぎない。
ただ言えるのは高い質を持った作品が生まれていないのであれば、
プロセスに間違いがある、ということだ。
ここを弁えないで仕事をしている人が多いのであえて書いている。

さて、場にはそれ以上に大切なものがある。
前回も書いたように、一つの場において、一人一人が生ききるということだ。

長年、場と言うものを生きて来て、
場が素晴らしいと思う部分は、人の尊厳が現れるところだ。
人はそのままの姿が一番美しく、そして尊厳に満ちている。

自分の尊厳を奪ってはいけないし、まして他人の尊厳を奪ってはいけない。

場から見るなら、外の世界は嘘にまみれている。
媚び、諂う人間はそれによって自分が得をしようとしているのだから、
自分で自分の尊厳を奪ってしまっている。

地位も名誉もお金も、いざとなったら何の役にもたたないことを忘れいる。

いくら誤摩化しても場では見えてしまう。
立場が偉い人を恐れる人が多いが、それも自分が得をしたいからだ。

自分が何も貰う必要がなければ、誰のことも恐れることは無いだろう。

持ち物で自分を語り、立場で威張って見せているだけの人間に、
媚びるということは、たかって生きて来た証だ。

それよりも尊厳と言うものは立っていただけで漂っている。
絵でもそうだけど、1本の線だけで決まってしまう。

これからの時代、これまで通用して来た様々な道具が使えなくなって行くだろう。
色んなものを失って行ったとき、その人がそのままの姿で、
裸でその場に立って尊厳を持ち続けられるか。

場においては、上っ面の誤摩化しは全てはぎ取られる。
誰がする訳でもなく、場がそうするのだ。
威張っている人ほど惨めな姿が曝されるだけ。
弱くても素直であれば場から愛され、可愛がられる。

化けの皮を剥がされると言うよりも、最初から裸にさせられてしまう。
そこであたふたと逃げ回る惨めな人をこれまで、何人見て来ただろう。

ここにいる人達の方が遥かに立派なことは見てみれば一目瞭然だ。

だから場は本当の意味で平等だと思うし、
平等はなかなか怖いですよ、と言いたい。

場には厳格な掟がある。
僕はそれを忠実に守って来た。
作家達を見ていても、時に誤摩化したり逃げようとしてみたり、
僕達と変わらない姿を見せたりもするが、
最後のところで素直に前に進む姿は素晴らしい。

ここではみんなが場の仕組みをしっているし、
どうすれば人や自分が輝くのか分かっている。

見ていて人間と言う存在は美しいな、素晴らしいな、凄いな、
と思える場面が沢山ある。
自然の中で、ただ裸で何も持たずにその場に立っている姿。
自分の全てを賭けて一つの行為を行う。
尊厳に満ちた裸の存在同士が、全身でやり取りする。
響き合う。
相手を感じて、お互いを気持ち良くしようとする。
感じ合う。

今何のためにここにいるのか、感じてみよう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。