2012年4月1日日曜日

「障害」について考える

ゆうたの皮膚のアレルギーが続いていたので病院に行って来た。
いい先生で漢方を出してくれる。
体調も良くなって来た。
アレルギー専門のところだったので、最近またでていたよし子の喘息もみてもらう。
ちょっと距離があるので車で移動。
良いところはやっぱりこんでいる。
全部で6時間もかかってしまった。

さて、今回のテーマは障害について。
こういう活動をしているから、質問は受けるが、正面から語ったことはない。
何故なら、違う次元のことを問題にしているからだ。
僕自身は前回書いたような人間の生き方や、感覚の力をテーマにしている。

今回はやや一般的なテーマをあえて考えてみる。

私達の社会にある問題の一つに「障害」あるいは「障害者」のことがある。
最近では触れない方が得だとばかりに無いことにされている場面もある。
正面から語るまいとする人も多い。
障害という言葉が出てくると、気持ちよくはないからだろう。
でも、なかったことには出来ないし、避けてはいけない。

例えば一番大きな問題は、差別だろうが、
これは人種や他の問題についてもつきまとう。
しかも差別の問題は難しい。
差別とは、偏見や誤解であるし、偏見や誤解は思い込みからくる。
ここの部分が難しいのだが、思い込みを持たない人はいない。
人は思い込みを持って生きている。
だから、差別の問題を外から語ることは出来ない。
すべての人が自分の問題として考えることだ。

結論を先に言えば、難しいことだが、日々思い込みをすてるしかない。

障害を持つ人に対してのあからさまな差別は無くなってはきている。
無いように見える。
でも、無視することも差別の一つだし、
関わりを持つまいとする流れはいまだにある。
そして、こういうものだと言う、思い込み、決めつけ。

知らず知らずのうちに上からものを見ている人が多い。
助けてあげたいという思いだって、上から目線の可能性は高い。

障害を持つ人達のグループも最近では、
オシャレでカワイイという軽いイメージをだしているものも増えた。
勿論、これまでのような汚い、暗いイメージはなんとかすべきだ。
でも、ただオシャレ感をだしただけでは、全く本質的には何も変わらない。
かえって、無いように見せようという、世の中の流れに一役かってしまう。
それに、そういう風に見せなきゃという媚がないか考えてみた方がいい。
大事なのはもっと内面的なこと。こころが通い合っているのかだ。

ここでも書いた気がするが、差別用語というものがある。
あからさまな偏見を含むものは無くした方がいいのは当り前だ。
でも、言葉を統制することで差別は無くならない。
むしろ逆だと思う。
例えば、よく見るが電車に精神障害の方が乗ってくる。
1人で歩き回ってぶつぶつ言っている。
あからさまに差別的な眼差しで見る人や、席を立って逃げていく人もいる。
でも、一番多いのは、見て見ぬふり。
いないことにしよう、関わらないようにしようとする人。
言葉を統制することもこれと同じで、
そうすることで関わりをもつまいとしているだけだ。
一つの同じ言葉でも、人を傷つけたり、逆に喜ばせたりする。
こういう風に言ったら傷つくかな、でももっと繋がりたいな、
もう仲良く話してもいいかな、まだ敬語の方がいいかな、
とかそうやって相手とこころの距離を確認していく、
それが関わることだ。
これを言ってはいけないと決めつけるのは、
言わなければ無難、もしくは関係せずにすむというだけのことで、
決して相手への配慮ではない。

障害なんて無いという人もいるが、
それもこれと同じで、ないことにしたいだけだ。
あるいは障害も健常も無いとか、どこからが障害と言えるのかとか、
さも平等にみえる発言をする人がいる。
まずはっきり言おう。
障害も健常も無いなんて嘘だ。
それから、自分だってこういう性格で生きにくいから、
自分だって障害者と言えるのだと得意げに話す人もいる。
これも違う。
障害とは、生まれつき、あるいは後天的に持つ身体的、心的条件が、
現行の社会システムの中で適合出来ずらい、無理を強いられることを言うのであって、
性格や癖のような問題とは異なる。
同じ理由から障害は個性であるというきれいごとも間違っている。
障害を持つ人達にも当然、個性がある。障害が個性なのではない。

関係しないために作られているシステムを平等と勘違いすることで、
障害を持つ人達は孤独を感じさせられて来た。
例えば、人とケンカも出来なかった。
ケンカも関係が強いと言う一つの現れだし、
直接的なコミニュケーションの形だと言える。
障害を持つ人とケンカする人は少ない。
自分に非があるように見られる可能性が高いからだ。
僕が昔、会って来た人の中には、これを逆手に取って健常者をいじめる人もいた。
僕はそういう卑怯を許すことは無い。
そういう人を見ると、必ず言い合うことになった。
面白いことだけど、その後に誰よりも仲良くなる。
彼らもそうやって腫れ物に触るようにされて来て孤独だった訳だ。
繋がりたい、でも距離を無くしてくれない、
無意識の差別を前にして、こいついい人ぶりやがってと、
試す気持ちで健常者いじめをしていたということだ。

そのうちの一つのケースを次回紹介しよう。
時間が来てしまったが、まだ書くことは多いので、次回続きを書こう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。