2013年9月21日土曜日

月の光

静かな季節。
昨日の夜、月の光が怪しいくらいに奇麗だった。

会うべき人に会ったり、行かなければならない場所が色々あったり、
気がつくと一週間が終わっている。
やっぱり制作の場が良いなあ。ずっとこれをやっていたいなあ、と思ったりも。
でも、やりたいことと、やるべきことは違ったりもする。

今日から3日間連続でアトリエだ。
どんな作品と出会えるだろうか。どんな場をみんなで創れるだろうか。

夜が長くなって、体調も変わって来るし、特に意識のあり方は変わる。
これから冬にかけて明晰さが増して来る。
緊張と弛緩の割合は季節によっても異なる。
このことは制作とも深く関わることだ。

僕の言う「場」にはその中だけでなく、
外の動き季節や社会の流れにもある程度の要素が加わる。

スタッフによってスタイルはそれぞれだ。
自然体で感性で行くようなタイプも居るし、
コツコツと下地を固めて行くタイプもいる。
セッションのような関わり方もあるし、
相手の懐に入って委ねるような関わり方もある。

感覚で捉える人、分析して自覚を持ちながら動く人。

とにかく、みんなが気持ち良く制作に入ってくれるためには、
様々な努力と工夫が必要だ。
そういうことを楽しめて、自分を磨きながら進んで行ける人材が、
これからもっともっと必要になって来るだろう。
何もこのアトリエのことだけを言っているわけではない。
社会的にそういった人材育成が急務になるだろう。

僕達はスタッフはみんな同列だと思っている。
上も下もない。実はキャリアもほとんど関係ない。
そして、本当に必要なことは教えることが出来ない。

一人一人が自分のこころと身体でつかむしかない。

伝えられることは1つだけだと思う。
それは場に入る時の、挑む時の姿勢だ。
外に現れる動きは様々だろう。スタイルは色々あるだろう。
でも、向かう時の気持ち、構えは1つだ。
少なくとも、本物の仕事をしている人はみんな一緒だ。
その姿勢、覚悟と言っても良い。
そういうものは姿を通して、気配を通してしか伝わらない。
だからこそ、一緒に場に入ることは大切だ。

僕の場合は、あくまで僕の場合だけれど、
制作の場において、関わって行くとき、絵を見るように全体を把握する。
時間の流れも空間の奥行きも、一人一人のこころのありようも、
すべてを含めて一枚の絵のように見て、そこでのバランスの中で動き、判断する。
どの位置に何があるべきか、ということだ。
緊張と弛緩、強弱、勢いと静けさ、笑いと注意力、
近さと遠さ、主観と客観、時間と力のバランス、配分。
どんな要素も、ハプニングや、例えば負の要素もそれ自体が悪いわけではなく、
全体の中での置かれる場所、ポジションが重要だ。
美しくあるべきだ。調和が必要だ。

忘れてはならないのは、ただ上手く行っているだけでは意味がない、
ただ悪いことがないだけではダメだということだ。
おっ奇麗だなあと人が感じるような場にならなければならない。

これって人生だな、とも思う。

長い夜。月の光がいつまでもそこにあった。
ゆうたが電話をしてくれる時がある、「パッ、パパアー」と叫んでいる。
話しかけると「うーん」「ハイイ」と返事して聞いている。
可愛いなあ。嬉しいなあ、と思う。
毎日、変わって行く、毎日、成長して行く。
切なくもあり、嬉しくもある。

昨日は夜、落語のCDを聴いた。久しぶりだ。寄席にもぜんぜん行かなくなったし。
今はやっぱり志ん潮かな。でも文楽も馬生も小さんもいい。
僕にとって志ん潮は別格。一つの感性形だ。
亡くなった時は他のファンもそうだったろうが、もっと老成されて、
枯れた後の芸が見たかったと思った。これからが見物だったはずだと。
でも、今は見解が違う。
あれ以上の形はないというところまで完成された芸だったし、
ある意味で言うともうこれ以上は行きようがないというところに居たと思う。
以前、グールドのことを書いたけど、
早い時期に完成形に到達してしまう人と言うのがやっぱりいると思う。
それはそれで、辛いことなのではないだろうか。

見えない方が、分からない方が幸せということもある。

見えてしまったからには、行かなければならないのだし、
到達してしまったとしても、命ある限り、生きて行かなければならない。

それでも天才には華があって、見ていて与えられるものは大きい。

人生も世界も本当に不思議で、少なくとも、良い悪いの基準では計れない。
そもそも、基準を作って計ろうとするのが間違いなのかもしれない。

僕達はこの深淵を、ただどこまで楽しめるかということなのではないか。
何も分からないからこそ面白いと言うのは、
仕事でもいつも感じることだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。