昨日も良い場になった。
特に午後のクラスは本当にみんな活き活きしている。
さて、いくつか書くべきテーマがあるのだけれど、
波風立つことは今は控えたい。
これまで、何事もはっきり正直に書いてきた。
大袈裟に言えば真実に近づきたいからだ。
目的は良くして行くために、認識や考えを伝えることであって、
人を批判したり恐れさせたりするためではない。
そういう結果に繋がったなら本意ではない。
身近な人達は僕には何でも言える、と思ってくれているし、
若い仲間等は何を言っても許されるとさえ思っている。
そういう人達がいてくれて嬉しい。
でも、やるべき使命に忠実であろうとすれば、
戦わざるを得ない場面もあるし、厳しい姿勢で挑むことも多い。
最近、ちょっと寂しいのは無用に怖がられたり、
遠巻きにされることだ。
当たり前のまっとうな、常識的なことしかしていないのにと思う。
人を恐れさせて支配するようなことは、最も嫌いなことだし、
むしろ、そういう人や権威と戦ってきた。
本末転倒だけは避けたい。
ただし、今後も伝えるべきことを濁すようなことはしない。
誰も言わないのだったら、こちらが言う他ないという話が沢山ある。
天気は安定しないけれど、少しづつ涼しくなって、過ごしやすくなってきた。
何度か話題にしてきたが、障害を持つ人達との関わりにおいて、
アートや表現を触媒にしようと言う流れが強くなってきた。
そのような環境も増えているし、美大もそういったジャンルで、
学科を作ったりしている。
ワークショップやイベントも多くなったなあ、と思う。
おそらくは福祉の政策もその方面を推奨する方向にあるのだろう。
ここでいつもながらに、問題も感じざるを得ない。
最近もたまたまだが、関わる人間というテーマにふれた。
忘れてはならないことは、そのような人のこころと関わること、
制作と関わることは、無自覚に行ってはならないということだ。
車を運転するのにも免許がいる。医者にも資格がある。
当然だが、知識と経験がなければ危険だからだ。
これはこのようなジャンルで関わろうとする時も同じだ。
障害を持つ人達と制作を繋ぐということは、
まだジャンルとして確立されてはいない。
それぞれが曖昧な思いで動き出してしまっている部分が大きい。
結果がどうなるかは、僕には想像出来る。
何のために何をしているのか分からないような、
いい加減な活動と、さして魅力のない作品があふれかえるだけだ。
活動にも作品にも魅力や生命力がなければ、やがて注目する人がいなくなる。
外の人が興味を惹かれなくなったものは、狭い世界で少しづつ衰弱して行くしかない。
そのような結果に終わらないためには、
関わることを真剣に考えている人達を本気で育てていくしかない。
もう1つ。
アートとしても、たとえばアール・ブリュットが、
これまでの美術の歴史とは別の部分で注目されている。
これについては、ゆっくり書く必要があるが、今はその時間がない。
いずれ、纏めて書こうと思う。
ただ、今言えることは、2つの流れは共に、
まだまだ、深く考えられていないために多くの危険性を伴っている。
自覚的に考え、現状と過去を冷静に分析して、次に向かう必要がある。
僕の立場で言えることは、作家たちの魂を軽く扱うのはやめるべきだということだ。
これらの結果はすべて作家の魂と直結してしまうのだから。
関わろうと思う人間は、謙虚さと確信と強い責任感をもって、
人生を賭けて挑むべきだ。