2013年9月7日土曜日

大切な記憶

曇り空が続くけれど、静かで悪くない。

夜、窓を開けて寝ると寒いくらいだ。
夜風は気持ち良い。
昨日の夜、カラスが飛び回って何度も何度も呼び合っていた。
会話しているように。
何かの前兆か、と思いながらも寝てしまった。
虫の声もする。
良い季節だ。

久しぶりに飼っていた犬の夢を見た。
やさしい目をして、草原のような場所で。

毎日、ゆうたの写真を見る。

合宿中の夜、みんなで流星群を見た。
深い闇、深い夜の空は明晰に星の輝きとともにあった。
昼間は地球だけど、夜は宇宙にいるのだった。

あの時はあの人とあの人がいたとか、
それぞれの情景には必ず、人の思い出が入っている。

一緒にいた人達のことを忘れることはない。

触れる感触も、匂いも音も、すべてが消えずにここにある。

記憶というのは不思議なものだ。
本物の記憶は身体の奥深くにある。

ダウン症の人たちが絵を描くとき、そこにははじめ、なんの手がかりもない。
彼らは習い覚えたものとして描くわけではないし、
僕達スタッフも教えるということをしない。
でも、彼らはすらすらと描いて行く。
迷いもない。絵を描くという感覚すらない場合も多い。

これを何故だろうと思う人も多いだろう。
仕組みを知りたいと思うかもしれない。

知ろうとするより、感じてみることが大切だ。
私達も最初から知っているのかもしれない。
こころの奥深く、身体の奥深くにある、生命の記憶に刻まれている感覚。

制作の場に向き合い、そこで経験することとは、
そのような人間の根本に関わる何ものかだ。

あるいは作品を見て美や調和を感じているとき、
私達は自らの内側にある本質を思い出しているのではないだろうか。

だから、ゆっくり作品を鑑賞し、味わって欲しい。
何か大切なものが感じられるはず。
それは今まで存在していなかった世界なのではなく、
ずっとずっとそこにありながら私達が忘れてしまっているものなのかも知れない。

僕の父は下町の工場の生まれで、早くに亡くなった人も多いが、
兄弟は10人近くいたはずだ。
それぞれが本家のようなところに戻って来ると、凄い人数になる。
家も大きかった。
父と母は早くに離婚していたので、いつの記憶なのか分からないけど、
僕はその家にいてみんなを見ていたことを思い出す。
いつも誰かがピアノを弾いていて、その音が心地良かった。

その時のみんなのいる感じを、僕はやっぱり絵のように覚えている。
そして、そこで鳴り響いていたピアノの音をふと思い出す時がある。

なにもかもが予め決まっていて、そこへ向かってすべては流れ、
消えて行くのに、それでも僕達は全力で行きて行くことしか出来ない。
そんな風に感じることがある。
それは切ないことでもあるけれど、
何か素敵な素晴らしいことでもあるような気がする。

宮崎駿監督が引退した。明日、オリンピックの開催地が決まる。

いつか、大きな地震が来るのだろうか。富士山はどうなるのだろうか。

今日はどんな場になって行くのだろう。
大切なものに触れる時は、注意深くやさしく、緊張感を持ちながらも、
ワクワクするような感覚になる。
場に入る時もいつも同じ。

さあ、今日も始めよう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。