2013年9月2日月曜日

再び、関わることについて

今日はちょっと別の話題で。

昨日のアトリエで、何気ないほんの5分程のこと。

しばらく前に、なんだか足がだるいなあと思っていた。
そして、気がついた。
アトリエ中、ずっと立ちっぱなしだからだ。
これまでずっとそうだったなら慣れているから疲れない。
そう、立ちっぱなしになったのはここ1年位の間だ。
それも立ちっぱなしになった時期から、制作の場において僕自身が使う、
体力やエネルギーは格段に必要なくなった。
だから、足はだるくなったけど、そんなに疲れない。

個人よりは場をより見るようになったし、何と言うか軽くなった。
僕のテーマはずっと「深く入ること」だった。
このことは以前も書いたが、今はそんなには深く入らない。
深く入らなくても、一人一人に必要なものは与えられるようになった。
与えるという表現は本当は適切ではないのだけど、
スタッフとしてやらなければならないことはある、というだけの意味で使う。
気をつけるべきは、与えようと思う人はスタッフとしては不適切だということだ。

そのことが何故、立ちっぱなしの理由かと言うと、
僕の場合、相手の隣に座ると、座った瞬間からその人の内面の深くに入る。
それはこちらでも分かるし、相手にも分かる。(無意識に分かる場合も含めて)
少し離れて見ている場合、どうしても立っていることの方が多くなる。

勿論、こんな物理的なことだけではない訳で、
座っても入らないこともあるし、立っていても深く入ることもある。
わざとそうすることもあるし、たまたまそうなることもある。
更に言うなら、立っていることは知らない人がやると、
確実に場を乱す結果となることを忘れてはならない。
制作している人達より視点が上にくるのだから当然だ。
威圧感も緊張感も与えてしまう。
ある程度の影響のコントロールが出来て、
気配を出したり消したり出来なければ、立ったまま見ているのはよくない。

前置きが長くなってしまった。
昨日のアトリエでのことだった。
みんながすらすら描いて終わって行く中、
まあゆちゃんの筆の動きがずっととまっていた。
彼女の場合はこんなことは良くある訳で、最後には描いていくので別に問題はない。
でも、僕を見た目が近くに座って欲しそうだったので、座ることにした。
最近は自立心が強くなっていたので珍しい。
彼女を見ないで自然に隣に座ると、耳元で「久しぶりな感じですね」と言われる。
凄い敏感さだ。すべて分かっている。
そして、本当に小さな声で、そっと、ゆっくりと「どうですか」と何度か。
筆を持って僕の方は見ずに、「また、一緒に行きましょう」と言う。
すると、虫の声がチ、チチチチ、と急に聴こえて来る。
筆は自然に動き出し、色が重ねられて行く。
透明な世界が広がる。魔法のように5分くらいですべては終わる。

僕が大切にしてきたこと、関わるということはこういうことを言う。
彼女の言った「一緒に行きましょう」という言葉。
それはこちらもいつでも同じだ。
何度も何度もこういった言葉を聞いてきた。
「行こうね」とか「奇麗なもの見せてあげるね」とか、そんな言葉を。
言葉にはしないでも態度や気配で同じことを伝えられることはもっと多い。

こういうことは大切なことで、本当は人には話したくない。
でも、書いたのは、関わることの繊細さと責任を知ってもらいたいからだ。

ダウン症の人達のみならず、
様々な障害を持つ人達の制作する環境は、これからもっと増えて行くだろう。
作品を世に出したり、売ったりしようという流れも強くなっている。
そんな中で僕が最も危惧しているのは、関わる人間の問題だ。
何度か、書いたかもしれないが、彼らの場合、誰が一緒にいても同じではない。
まだまだ、このジャンルの必要性は認識されてはいないが、
僕は「関わるプロフェッショナル」が必要だと考えている。
そういった人材も育てて行く必要があるし、
そういう存在が必要であるという認識も広めなければならない。
そこを抜きで宣伝や経済活動が動き出すのは怖いことだ。

これまでは作品や作家たちの魅力を中心に語ってきたが、
次には環境や関わる人間の仕事についても、
しっかりと1つのジャンルとして確立して行くべきだと考えている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。