昨日のアトリエは素晴らしかった。
今は色が良くのっている。鮮やかだ。光ってるみたいだ。
前回のブログで一枚の絵を見ている時のような感じで、
場全体を見るということを書いた。
最初に一番必要なのは現状把握なのだけど、これは一瞬で行われなければならない。
一瞬で把握するためには絵としてパッと見ることだ。
この感覚は大事なので前回だけでなく、何度か書いてきたと思う。
書いたけれども、書いたことは忘れるので、いつものように忘れていた。
そうしたら、ハルコがまたそのテーマを与えてくれた。
絵を描きながらハルコはみんなのことを話していた。
目は紙を見ているのだけど、明らかに他のメンバーのことが見えている。
近い距離感で語ってみたり、もう少し遠い感じで話題に入れたりしている。
みんなも笑っている。
視点は多角的ですぐに変化して行く。
とても良く見えている。
それからしばらくして、三重での合宿の絵を描くと言うと、
イメージの中で情景が見えてきたのか、様々な場面を語りだす。
まるで今おきていることのように。
聞いている僕達も感覚ごと記憶の中に入って行く。
良く覚えているなあ、とも感じるけど、これは単なる記憶ではない。
それよりもここでハルコが見ている場所が重要だ。
ちょっと離れて上から見ているような感じだ。
でも、上からと言っただけでは上手く言えてはいない。
時間は混ざり合う。過去と現在と未来。
それから、現実と夢とイメージ。
どこまでがどこまでなのかがはっきりしないというよりは、
すべてが同じ配分で存在している。
作品自体もやっぱり上から見たアングルで描かれている。
でも、そこには上からは見えない視点も導入されている。
だから上からとは空間的な上ではなく、もっと内在的というか、
すべてが見渡せる場所としての上とあえて言おう。
その場所自体もやわらかく、確固としたものではない。
自分や他人、内部と外部と言った境界はほんの僅かにしか存在していない。
というよりは主体だけが無くなって後のものは全部ある感じだ。
主体は完全にないのではなく極めて弱くなっている。
すべてがただ過って行くだけのもののように。
このような感覚が絵のように全体を見ることに繋がる。
ハルコのように感度が高い人達は生まれつき、
こういった視点を持っているように思う。
分かりやすい言葉がないので、「俯瞰」と言ってみることが多いが、
本当のことを言うとただの俯瞰とは違う。
俯瞰は離れなければ出来ないが、
この全体を見る目は離れずに行われる。
外をぶらぶら歩いているとき、歩調がぴたりと決まる時がある。
時が刻まれて行く感覚があって、
その場ですべてが正しい位置にあることが自覚される。
そのとき、歩きながら、制作の場の全体が見える。
変な言い方をすると、ここに居るけれどあそこに居るという感覚でもある。
全体の中でのこの瞬間の位置であったり、宇宙の中での自分や命の位置であったり、
そういうものを自覚する瞬間がある。
ふとした何気ない一瞬にすべてが見える。
それは本当に一枚の絵のようなものだ。
バランスがあり調和があり、何がどこにあるのかが感じられる。
全体を認識する感覚は言わば極意のようなものだろう。
そこにこそ彼らの作品の秘密があるような気がする。