2013年9月22日日曜日

極意

昨日のアトリエは素晴らしかった。
今は色が良くのっている。鮮やかだ。光ってるみたいだ。

前回のブログで一枚の絵を見ている時のような感じで、
場全体を見るということを書いた。
最初に一番必要なのは現状把握なのだけど、これは一瞬で行われなければならない。
一瞬で把握するためには絵としてパッと見ることだ。

この感覚は大事なので前回だけでなく、何度か書いてきたと思う。

書いたけれども、書いたことは忘れるので、いつものように忘れていた。
そうしたら、ハルコがまたそのテーマを与えてくれた。

絵を描きながらハルコはみんなのことを話していた。
目は紙を見ているのだけど、明らかに他のメンバーのことが見えている。
近い距離感で語ってみたり、もう少し遠い感じで話題に入れたりしている。
みんなも笑っている。
視点は多角的ですぐに変化して行く。
とても良く見えている。

それからしばらくして、三重での合宿の絵を描くと言うと、
イメージの中で情景が見えてきたのか、様々な場面を語りだす。
まるで今おきていることのように。
聞いている僕達も感覚ごと記憶の中に入って行く。
良く覚えているなあ、とも感じるけど、これは単なる記憶ではない。
それよりもここでハルコが見ている場所が重要だ。
ちょっと離れて上から見ているような感じだ。
でも、上からと言っただけでは上手く言えてはいない。

時間は混ざり合う。過去と現在と未来。
それから、現実と夢とイメージ。
どこまでがどこまでなのかがはっきりしないというよりは、
すべてが同じ配分で存在している。

作品自体もやっぱり上から見たアングルで描かれている。
でも、そこには上からは見えない視点も導入されている。
だから上からとは空間的な上ではなく、もっと内在的というか、
すべてが見渡せる場所としての上とあえて言おう。
その場所自体もやわらかく、確固としたものではない。

自分や他人、内部と外部と言った境界はほんの僅かにしか存在していない。
というよりは主体だけが無くなって後のものは全部ある感じだ。
主体は完全にないのではなく極めて弱くなっている。
すべてがただ過って行くだけのもののように。

このような感覚が絵のように全体を見ることに繋がる。
ハルコのように感度が高い人達は生まれつき、
こういった視点を持っているように思う。

分かりやすい言葉がないので、「俯瞰」と言ってみることが多いが、
本当のことを言うとただの俯瞰とは違う。
俯瞰は離れなければ出来ないが、
この全体を見る目は離れずに行われる。

外をぶらぶら歩いているとき、歩調がぴたりと決まる時がある。
時が刻まれて行く感覚があって、
その場ですべてが正しい位置にあることが自覚される。
そのとき、歩きながら、制作の場の全体が見える。

変な言い方をすると、ここに居るけれどあそこに居るという感覚でもある。

全体の中でのこの瞬間の位置であったり、宇宙の中での自分や命の位置であったり、
そういうものを自覚する瞬間がある。

ふとした何気ない一瞬にすべてが見える。
それは本当に一枚の絵のようなものだ。
バランスがあり調和があり、何がどこにあるのかが感じられる。

全体を認識する感覚は言わば極意のようなものだろう。
そこにこそ彼らの作品の秘密があるような気がする。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。