2013年12月14日土曜日

美しい時間

土、日曜日の教室も来週で今年最後になる。
制作の場に居るときが一番良いなあ、とつくづく思う。
それは緊張感もあるし、エネルギーも使うのだけど、
しばらく離れていると、場に入りたいという欲求は強くなる。
多分、1月にはまた帰ってきた、という充実感に包まれることだろう。

前回は悪いものだからといって、
潔癖性のようにすべてを排除しようとすることは危険だという話をした。
これとちょうど同じように最近よく見るのは、
これは絶対に良いとか、正しいと決めつけてみるということだ。

一例に過ぎないがいつの間にか農業や自給自足が偉いということになっている。
そういう扱いを目の当たりにした時、正直おどろいた。
偉いと思われているだけならまだしも、
偉いということにしておかなければ、という雰囲気を感じる。
そして、今の世の中、偉いと思われていることには、誰も意見を言わないようになる。
言わないと言うか、触れると自分が疑われると思うらしい。
そう言う時に人は偉いですね、といって黙る。
このままでは農業も福祉と同じになってしまう。

別に農業もボランティアも偉くも何ともない。
どんなことも問題意識を失うと間違った方向に行く。

特別に偉い仕事も偉くない仕事もあるわけがない。
ただ、真剣に生きているかどうか、それだけではないだろうか。

こういうことは書き出したらきりがないので今日はやめておこう。

最近、テレビで人のこころの傷を扱った番組がある。
ある意味、見せ物のように扱うことがどうか、とか色んな議論が成り立つと思う。
だけど、ひとまず、良い悪いはおいておこう。

芸能人が過去の辛い経験を始めて告白する、というのが多い。
それを見ていると、中に小さいときの経験が登場して、
やっぱり人生の原点というか、幼い頃と家族、その時期の環境。
それがどれほど、その人を決定づけているのか、考えさせられる。
本当に出来過ぎている程、家族との関係やそこでされたこと、言われたことが、
ずっとずっとその人を操って行く。

上手く出来過ぎている話を聞くと多くの人は、本当に?と感じるだろうが、
拙い僕の経験から言っても、割にそういう感じを抱かせるものの方が真実なのだ。

こころに傷を受け、それを何処までも持ち続けたまま、
影響を受け続けて生きている人達の生い立ちを見ていると、
その人達の少年、少女時代が本当に可哀想だ。

子供達がその目でどんな世界を見、どんな世界を感じているのか。
もっと良く感じてみる責任が大人にはある。
今の僕達に見えているよりも、遥かに大きく壊れやすく動いている世界。
そういうものを大切に出来るかどうかは、大人の生き方にも影響してくるだろう。

僕自身の話をすると、実はあまりに過酷だった生い立ちや、
そこで見たり経験して来たことの数々はほとんど語ったことがない。
言ったとしてもほんの一部、断片的なものでしかない。
振り返るのが辛いわけではない。そこから逃げ出したい訳でもない。
ただ、それを聞いた人が受け入れきれないだろうし、
聞く方が耐えられないような、あんまりプラスの影響を与えない話だからだ。
だから、今後もそう言うことは話さないだろう。

確かに人生もこの世界も偶然の連続で、次に何が起きるか分からない。
一寸先は闇とも言えるし、だからこそ面白いのだとも言える。
でも時々、全てが完璧にぴったり決まった、と感じることがある。
何もかもが決まっていて完璧に配置されていて、あるべきものがあるべき場所にある。
最初から最後までずっとその連続で。
そんな景色の中に自分が埋もれて消えて行く。
そう言う感じを持つ時、つくづく生まれて来て、生きられて、良かったと思う。
それは一枚の絵を眺めているようでもあり、
映画館で一本素晴らしい映画を見ている時のようであり、
そして音楽を聴いているようでもある。
それもそれぞれの作品をすでに知っていて、
大好きな内容を繰り返し経験しているような感じかもしれない。

ただ何気なく外を散歩している時、
空を鳥の群れが飛び、遠くの方から光が射し、風が葉っぱを揺らす時。
足音のリズムと世界の呼吸が重なる時。
その瞬間に同時にすべてを感じる。
そして、すべてがあまりに美しいのだと思う。

制作の場において、ひと時ひと時がそのような時間となることが理想だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。