この2日間、雨が続きました。
寒くて外は薄暗くて静かな冬です。
もうすぐクリスマスですね。
会員の皆様にお届けしております会報につきましては、
来年の4月の発行とさせて頂きます。
宜しくお願い致します。
このブログもあと、1、2回書きたいですが、
今回が今年最後となるかも知れません。
水曜日にプレクラスが今年最後だったので、みんなとゆっくりおやつを食べた。
絵画クラスは、明日からの土、日、月の3日でおしまいだ。
良い時間をみんなで創って行きたい。
そして、来年も更に新しいことに挑み、これまで以上の活動をしたいと思う。
ダウン症の人たちの持つ豊かな文化を正しく位置づけるべくやって来たが、
まだまだ本当の理解には程遠いと実感させられる日々だ。
福祉にせよ、美術にせよ、他のどんなジャンルにせよ、
彼らの持つ可能性はまだまだ伝わっていない。
悔しい思いも沢山して来た。
だからこそ、これからも諦めずに挑みたい。
現状に全く満足していない。
決めつけられて、たかをくくられている視点を覆したい。
覆して行ってこそなのだから、
これまでどこかであったようなアプローチはしたくない。
何故そうまで思うかと言うと、当然、日々彼らの凄さを見ているからだ。
本質からブレてはいけない。本当のところを知ってもらわなければ。
そんな想いで来年も挑みたいと思っています。
映画 かぐやひめの物語、気になっていたけど、なかなか行けず、
でも、ようやく見ました。
良かったです。
切ない悲しいお話です。
懐かしいやさしいお話です。
そして、人生や世界や生きることの深い部分が描かれています。
この映画版にしても原作の竹取物語にしても、
何故、こんなに人を惹きつけるのだろうか。
以前も書いたけれど、それは僕達、
一人一人のこころの奥にある記憶に触れているからだろう。
かぐや姫は去って行く。去って行く為に来たようなものだ。
だから、短い時間、一緒に過ごした誰もが悲しい思いをする。
そんな悲しい物語に何故、魅力を感じるのか。
それはその悲しみの中にこそ、美しさもやさしさも、輝きもあるからだ。
直視するには辛すぎるものがある。
その一つが孤独や悲しみだろう。
でも、孤独と悲しみだけが自分を浄化してくれる。
悲しみだけが人を純化し透明な認識の高みを教えてくれる。
孤独と悲しみだけが真実へ至る手段だ。
ただし、それは個人的な感情としての孤独や悲しみではない。
もっと普遍的な、人間が人間として存在していることの大本にある悲しさ。
かぐや姫の物語はそんな人間の真実に触れている。
かぐや姫を取り巻く人達。それは私達自身だ。
おじいさんもおばあさんも、彼女を射止めようとする男達も。
みんな私達自身だ。
それは何処までも過ぎ去って行く時を前にしている人間の姿だ。
誰一人、かぐや姫を自分の元に留めることは出来ない。
かぐや姫は誰のものにもならない。
何故ならかぐや姫とは美そのものだから。
そして美とは消え去るものだからだ。
でも、誰しもが最後には自分の元から去って行くであろうことに気がついている。
だから一人一人が切ないまでに一生懸命だ。
おじいさんもおばあさんも、男達も切なく悲しい真実に真っ正面から向き合っている。
去って行くであろう存在をみんなが逃げることなく直視している。
本当に生きるとはこういうことだと思う。
何もかもが消えて行く。何もかもが過ぎ去る。
何もかもが儚い。
やがてはすべてが流れて行く。
それを直視することは辛いことだけれど、そこにこそ美や真実がある。
やがて失われるからこそ、美しい。
悲しみを知らなければ、本当の美しさは分からない。
そんな美を体現している存在だからこそ、誰しもがかぐや姫に惹かれていく。
そしてこの儚い美はを前にした人々の視点と、
かぐや姫自身の視点はほとんど同じものだ。
だからその意味でかぐや姫を失う人々も去っていくかぐや姫も、
真実の美というものの前で一つになっている。
同じところを見ている。
かぐや姫とはこれもまた僕達自身なのだ。
どんな人のこころの中にもかぐや姫は存在している。
確かにかぐや姫はスーパースターだし、一般の人間ではない。
でも、そこには普遍的な認識が横たわっている。
僕達はいつの間にかかぐや姫に共感してしまう。
かぐや姫は一つの記憶を失わなかった人の象徴と言える。
自分が何処から来たのか。
月であり無限である場所から僕達はやって来た。
そしてやがては立ち去らなければならない。
ここはかりそめの場所だから。
出会うもの、人々、すべての瞬間が輝かしく、
あまりに悲しく、あまりに美しい。
すべては過ぎ去り、無限の彼方へと帰って行く。
そしてかぐや姫である僕達自身も、やがてはここから立ち去る。
そのことを誤摩化さない、忘れないということが大切なのではないか。
人は誰でもかぐや姫なのだ。
素直さとやさしさ、慈しみ、輝く美、すべてはあの透明な悲しみからやってくる。
今というこの時の中で、この瞬間、全力で生きていたいと思う。
彼方からの視線、無限の眼差しをもって見つめ認識の深みを生きていきたい。
制作の場はそのような自覚の中で、
大切に大切に動いて行くということが必要だ。