色々と仕事が増えてくると、事務仕事だけでも朝終わらせるとスムーズだ。
早朝に時間をシフトさせると、朝日を見ることも出来るし。
そう言えば、久しぶりに一人でやっている日の出を見る会も始めるか。
日曜日の教室はいつもながらに明るかった。
1、3日曜日の午後のクラスは天気も良い日が多いのが不思議だ。
流れも勢いもあって一瞬で終わっていたりする。
彼らのリズムを分かりやすく伝えるために、
僕もゆっくりとか穏やかとか言ったりするが、
本当のことを言うとそれだけではない。
制作を見ていても感覚の動きを見ていても、
僕達より遥かにスピード感がある。
彼らの感性に敏感に反応して行くには、こちらもかなりのエネルギーを使う。
さて、またブログの更新が少なくなるかも知れないので、
その前に書いておきたいテーマがある。
本当はもっと別のことを書こうと思っていたのだが、
このことに気がついてしまったので荒削りながら書いてみたい。
やはり、ダウン症の人たちの制作における特徴のことだ。
紙を前に、座った瞬間に筆をとって動き出す。
あの即興性。アドリブなのに、最後には必ずあるパターンが生み出されている。
魔法の様に美しい。
彼らにはあるバランスや秩序があるし、スタイルがある。
それをパターンや法則として見ることも出来る。
それでも、色と線と戯れている時の彼らは即興であり、アドリブである。
以前、「型」について、様式や儀式も含めて考えてみた。
あの時はまだ追求が足りなかったように思う。
あの時点では、あそこまでしか分からなかった。
そこで、即興はひとまずおいておいて、型のことをもっと考えてみたい。
機械的とか、メカニックとかは否定的に言われることが多い。
僕自身も私的な部分で、
よくロボットの様に感情を動かさないと言われていた頃もあった。
昨日のブログの中でも、場の中では流れに反応しているだけだという話を書いた。
古典芸能の型のように、とも言ったが、
そんなこともあって僕は型と言うものが気になるのかも知れない。
自分の経験を入れられるので、場における僕自身の動きをまず考えてみる。
場の中に居るときでも、勿論僕も人間なので感情は動いているし、
思考も完全に止まっているわけではない。
でも、感情や思考を何処で使い、何処においておくのか、
どの程度のボリュームで出すのか、といった調整をおこない、
ある意味で指示を出している。
自分と言うものを消してしまうのではなく、道具として使う。
場の中ではすべての要素が意味を持つ。目の前のやかんであっても。
その要素の一つが自分であったりする。
すべては、どのように認識するかにかかっている。
時々、身体としての自分が消えて、純粋な認識だけになっているような場面もある。
プライドとコンプレックスが人を不自由にしていることは何度も書いた。
そのプロセスが明晰に見えるからだ。
なぜ見えるのか、
それは自分自身がプライドとコンプレックスを全く動かさないからだ。
実はそれは当たり前の話で、
その場に居る時、僕はただの操り人形なので、場の要求に従っているだけだからだ。
何をやっても自分の手柄にはならないし、逆に自分がどんな存在でも、
別に恥じることも媚びることもない。
認めるとか、肯定するとかではなく、ただ、善くも悪くもないということだ。
僕は言いなりになって、こうしなさい、ああしなさいという場の要求に従う。
何処までも服従する。操り人形の様にただ動かされているだけだ。
そう考えた時、これは限りなく「型」というものに近いのではないか。
尊敬する白洲正子はお能において、型とは人間がロボットになることと書いている。
個性も感情も入れてはダメで、ただ型に服従するのだと。
でも、これだけでは何のために、が分からない。
白洲正子は型に従って行けば、やがて個性も滲み出て来るものだと言っているが、
それでもまだ何かが足りない気がする。
確かにお能を見ていると、型がいかに人を自由にするか、という逆説を感じる。
ところで、グレン・グールドというピアニストも、
メカニックとか、ロボットと言われている。
そのグールドがある時、はっきり聴こえたと思えた。
初期の頃のピアノコンチェルトのいくつかを聴いていた時だ。
音は完璧なまでにひたすら決められた場所に置かれて行くだけだった。
でも、グールドはいつもの様に気持ち良くうなっている。
グールドは2人いるのか、と思ったこともある。
構成し完全に配置するグールドと、その調律に感動しているグールド。
グールドの感動は決して感情移入ではない。
音と音の関係性と重なりに快感を感じているだけだ。
グールドは自分が設定したテンポととリズムに正確に従う。
非人間的なまでに、感情や、音楽の情感を無視してただ一定のテンポを維持する。
ずっとそうやって音を重ねて行ったとき、何かが見える。
その時、僕はグールドの、完全に置かれるべき場所に置かれた音を聴いて、
これが世界だ、と感じたのだ。これが宇宙だ、と。
正確に刻まれていく音は、この世界の秩序のようだった。
あるDNAの研究家がどこかで言っていたことを思い出した。
遺伝子を研究している時、そこに書かれた情報を読んで行く、
その配列を見た時、あまりの完璧さに圧倒されたと。
すべては寸分の狂いもなく、完璧に並べられているのだと。
何人かの物理学者や他の科学者も同じようなことを言っている。
その研究家が見た宇宙の秩序と、
グールドが聴かせてくれた調律には共通するものがある。
グールだが設定したリズムとテンポを守って行くことは「型」と言って良いだろう。
とするなら、この世界にも宇宙にも秩序や調和という「型」があるということだろう。
型とは、その型を通して、型の核、型の奥にある型、普遍的型に至る為のもの。
ある時代にある人達が、
そう言った世界の秩序そのものを型として読み取って形にしたのだろう。
そうすると型は、型を感じとるためにある、ということも出来る。
宇宙の秩序を型の原型とするなら、その型をつかむということが核心にあるはずだ。
ここまでくれば、はっきりして来るのだが、つまりは即興のこともここで分かる。
即興やアドリブはその場の雰囲気を感じとって展開されて行く。
アドリブが美しくある為に、でたらめとの違いが何処にあるのか。
アドリブが美しく展開されているのは、
背後にある秩序をその場、その場でつかんでいくからだ。
そう考えれば、型と即興は同じものだ。
つまりはこの世界の秩序をどうつかみ反応出来るか、ということだ。
名人の型はアドリブに見える。また美しい即興も型の様に自然に見える。
落語の好きな人は、文楽、志ん生、みたいにいって、
それぞれ型と即興と捉えているが、志ん生は稽古に明け暮れているし、
文楽の自在さや遊びの軽さをどう見るのだろうか。
そこに志ん朝の芸を加えるなら、
即興が型に繋がって行き、型が即興に繋がって行く境地がありありと見える。
付け加えるなら、孔子の「心の欲するところに従って、のりをこえず」も、
道徳的な意味ではなくて即興と型の繋がる境地を言っているのではないだろうか。
こんなところから、ダウン症の人たちの制作における、
即興生と普遍的なバランス感の謎が、
人間にとっての根本のテーマに繋がることが分かってくる。