2013年12月13日金曜日

こころという不確かなもの

本当に寒くなりましたね。
この時期の日本海側はまた過酷です。
最近はそんなでもなくなりましたが、小さい頃の雪に覆われた景色を思い出します。

ここ数年でどんどん加速して来ていることがあります。
僕はこの流れは本当に危険だと思っているのであえて書きます。

しょっちゅう起きていることですが、世の中の不正や失言が問題になります。
勿論、悪を認めたり肯定する気はありません。

でも、一方で一度、悪であるとか悪いとみなしたものに対しての攻撃は、
あまりにも暴走しています。
極端なまでに硬直したものの見方や抑圧や弾圧に危険を感じます。

こうした流れは必ず個人のこころに歪みを生じさせるからです。

攻撃している人達も、そう言う態度をとらなければ、
自分も悪の側に入れられるのではないか、という無意識の恐れがあります。

一方で今の社会は精神的に病んで行く人が増えています。

この現象は繋がっています。
こうあらねば、こうであってはならない、という縛りが人を病ませるのです。
強く抑圧されている人は、他人に対しても抑圧します。
強い圧がかかればこころは壊れます。

僕はこれまで個人と向き合って来ているので、
こころと言うものが一般の人達が考える程、単純でないことを知っています。

絶対の善とか絶対の悪など存在しません。
絶対を作り、固定するところに圧が生まれるのです。

社会全体がヒステリックなまでに絶対的な善を押し付け、
悪を存在さえしていないものとして、もしも生まれたら、
即座に潰すということを続けるとどうなるか。

一言で言うと、人が病んで行くか、作られた偽善が円満するだけです。
悪を全く無いようにしようとすることは、実は歪んだ形で悪を増やしてしまいます。
人のこころの中を見てみるとそのことはよりはっきりすると思います。

無菌状態が免疫力を退化させるのと同じです。

勿論、人が生きるうえでは決めつけることは必要で、
絶対にこうだ、ということにしておかなければ社会は纏まりません。
だから決めつけることは必要です。
ただ、それが極端になると危険だということです。

人のこころはそんなに理屈通りに出来ていません。
めまぐるしく揺れ動いているのがこころです。
良い状態にも悪い状態にもなります。
病むことだって、そんなに珍しいことでも特殊なことでもありません。
そう言うものとして大きく捉えなければならないと思います。

悪いものとか、汚いものを無いことにしないことが大切です。
認めること、それにつきる、と思います。

人のこころと付き合って行く時、
性急にこうなれば良いという答えを出すのは最も失敗する方向です。

決めつけなければ社会が成り立たない、と書きましたが、
だからこそ理想は定期的に外す、
解放するということでこころの弾力性を保つ必要があります。

こころの専門家やお医者さんなんかは、治したり良くしたりするのが仕事ですが、
僕なんかの仕事は外すこと、解放することです。たとえその時だけでも。
言い換えれば、お医者さんには答えがあるのですが、僕には答えが無いのです。
ゴールも無い。
でも、そこで自由になったこころはちょっとでも良い方向に向かうことは事実です。

僕はよくこころが動いている状態ということを書きます。
こころは決めつけや方向づけをすると固定され、止まってしまいます。
社会や教育はこの止めてしまう方向に向かい安いのですが、
止めているだけなら良いのですが、強い圧がかかりすぎると、
動くことが出来なくなってしまいます。

僕のいう制作の場とはこころが動いている場所です。
そう言う状態に場や人がなってくれる為には、
一度、全ての決めつけを外してしまいます。
だから何がなんだか分からない、何一つ定かなものがない状態でいます。
良く書いているように、自分も他人も分からないくらいに。
右も左も、上も下も無いような状態で居るわけです。
それはもう夢の様でもあるし、真っ暗闇で何も見えないようでもあるし、
光り輝く渦巻きのようなものに包まれているようでもあります。
音の響き、倍音の膨らみの様でもあります。
すべてが流れているけれど、何処にも固定した形として定着しないような状態。
自分は誰だろう、ここは何処だろう、と言ったような感覚です。
こうしていると、こころは自由に動きだします。

面白いのはそこから必ず何かが生まれ、結果として、
バランスはちょっとでも良い方向へ向かうということです。

だから、僕達は自分のことも他人のことももっと恐れずに信頼して良いと思います。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。