2013年10月25日金曜日

消えること、変わること、

寒いですね。
明日の台風、心配です。

年末に向けて、来年の様々な打ち合わせが入っている。

ここしばらく、制作の場と作品に集中していて、
彼らの近くにいて、時には一つになったりしてみて、
ますます確信が強くなる。
今こそ、彼らの作品の出番なのではないか、と。
今こそ、彼らの文化に触れるべき時なのではないかと。
そういうことが差迫って必要になっているのが今なのではないか、と感じる。

僕自身、沢山の痛みを経験して来たし、辛い思いもいっぱいあった。
それは、誰でもみんなそうだ。
そんな中で、何が気持ちを満たしてくれるのか、
見て、聞いて、感じて、そして考えて来た。
確かなものは美しいと思えるものだけなのではないか。

アトリエの場も、そこに流れる時間も、作品も、一言で言えば美しい。

美しいものを知ることが出来れば、どんな時でも生きて行ける。

世の中を見ていると本当に、感覚が麻痺してしまっているのでは、
と思うことがいっぱいある。
自分で感じることも考えることも出来なくなっている人達。

本当に放射能をコントロール出来ると思っている人がいるのだろうか。
とんでもないことが起きていて、避けることも逃げることも出来なくなった時、
せめて現実を見つめるところからしか、何もはじまらない。

見なかったことに、なかったことに、誤摩化そうとする人達。

外を歩いていた。
小走りですれ違った子供のシャツに血がついている。
僕はビックリして子供を追いかける。
近くで見るとその血はシャツの模様なのだった。
血染めの模様でシャレのつもりで作ったものらしい。
なんというセンスだろう。面白くないどころか、正気とは思えない。
このようなものを作る方も作る方だが、着せる親もどうかしている。

人間の感覚が狂って来ている。リアリティがおかしくなってきている。

お店で写真ばかりとる人達。
どこかへ行くと必ず、自分がその場にいることを写真で記録している。
何かを食べているところでさえも。
あれは経験を記録しているのではない。
予め経験を薄めて、処理しやすくしているだけだ。
あれは見ないように感じないようにしているようなものだ。

この現実は編集出来るものではない。記録出来るものではない。

経験することが怖いからああしている。
経験するとは自分が変わってしまうことだから。
もう引き返せなくなることだから。

ヘッドホンで音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗ったりしている人たちも。
人にぶつかっても気がつかない。
迷惑なのはさておき、そんなことしても音楽なんか聴こえるわけがない。

本当に音楽を聴いたら、わざわざあんなものをつけなくとも、
どこでも音楽が鳴り響くはずだ。
それどころか世界のすべてがその音楽のように感じられるはずだ。
本当に絵を見たら、どこもかしこもその絵にみえるだろう。
経験するとは、変わること、今が過去になることだ。

知り合いに戦場でカメラを回す仕事をしていた方がいる。
面白い話を聞いた。カメラ越しに見ると恐怖を感じないが、
カメラを持たないと恐ろしくなるそうだ。
さすがはプロという話なのだが、それがカメラや記録という行為の危なさでもある。

僕達はいつの間にやら現実にいながら、現実を追体験してしまっている。
だから何を見ても聴いても、どこへ行っても、経験したことにならない。
それが今の世界だと言える。
どれだけ環境が汚染されていても、遠くの話のように聞いている。
そうやって半分眠ったまま、いつの間にか生命がすり減って行く。

分からなくなったら原点に返れ、とよく言われる。
今こそ、気持ち良いとか、美しいとか、美味しいという感覚を大切にしたい。

価値観が揺さぶられ、生きている世界が変わること。
全く新しい何かが現れ、これまでのすべてが終わって行く。
それが経験することだし、変化することだ。

僕の好きな志ん朝は「芸は消えるから良い」と言っていた。
人生もすべてそうだ。消えるからこそ新しくなる。

志ん朝には軽みがあった。流れるような透明感があった。
滞りがあってはいけない。リズム、リズム。

今、見たり、経験したりしているものがすべてではない。
あるとき、そんな現実がいっぺんに変わったりする。
そんな経験に自分を開いておくことが大切だ。

例えば、芸術表現にしても、絵画や音楽にしても、
あるとき、新しい概念が生まれる。
ダダ、シュールみたいなのもそうだし、なになに派とか。
キュービズム、フォービズム、アンフォルメルでも何でもいい。
もっと言うと四次元とか素粒子とか。
何故、ああいうのが出てくるかと言うと、それは新しいスタイルでも技術でもなくて、
見ている世界、見えている世界が変わって行くこと、
認識や経験が変わることだ。
世界の捉え方が突如として変わる。
その経験がさまざまな概念を生む。

今、見ているものがすべてではない。

談志は落語の中で他の落語を突如入れたり、
それが沢山混ざって来たりといった場面を作ることがあった。
沢山の話の前後が混ざり合ったりして行く。ピカソのように。
それをイリュージョンと呼んだりしていた。

すでに知っていると思って、現実を自分の頭で翻訳してしまうから、
新しい経験が出来なくなる。

評判が悪いようなので誤解を恐れずに言わなければと思う。
先日、見た松本人志監督のR100は傑作中の傑作だ。
やはり彼は天才だと思う。
世の中では評価されるべきものが全くされないことがよくある。

生きていると、習慣が生まれるから、濁って行く。
そこから差別や偏見や思い込みも生まれるし、
いつの間にか偏った見方しか出来なくなる。
フレッシュに物事を見つめてみたくてもなかなか出来なかったりする。

条件反射のように、あ、右だ左だと思って生きている。
でも、本当は何が右で何が左なのかさえも分からない。
上も下もあるのか分からない。

ダウン症の人たちの作品も名付けられないから面白い。
解釈しようにも出来ないところに価値がある。
彼らにはあんな風に見えているのだから。
だから、考えたり解釈したりするより、僕達もあんな風に見えるようになれば、
もっともっと楽しくなるはずだし、豊かになるはずだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。