2013年10月28日月曜日

幽玄

ぼちぼち風邪も流行りだしている。
体調をくずしやすい季節。
秋はよしことゆうたの喘息も心配だ。
なんとか頑張って乗り切ってくれているけれど、大変そうだ。

東京での作品出しは微調整の段階に入っているので、
来客があったり、打ち合わせに出かけたりになってきた。

もしかすると秋が一番季節を意識するのかもしれない。

200枚の作品が集まって、充実した心境だった。
ああ、やりきったなあ、納得出来る。満足出来るなあ、と。
制作の場では絶対にない心境だ。
いつでも、スッキリサッパリした状態とは無縁だ。
制作の場には終わりはないし、答えもない。そう思い込むと流れが止まる。
だから、作品を作品だけで扱うことは全く違う気持ちだ。
久しぶりに、いいなあ、という充実感に包まれてスッキリしていたのだけれど、
まあ、そんなのは3日間くらいのもので、今はもうそんな気持ちはない。
なにバカのこと考えてるんだ、さあ、次の仕事へ向かえ、と言われている気がする。

こうやってすぐに終わって、過去になって行くから新しく何か出来るわけだし。
まあ良いことなのではないだろうか。

もう一つ、
学芸員の方がどんな選定をされるか分からないが、
僕のところでは200枚の作品を出してしまっているわけで、
ある意味で出し切った状態なわけだ。
それで次にどうしよう、という不安を楽しんでいたわけだけど、
もうこの土、日曜日のクラスで良い作品が沢山描かれている。
これは作家たちの奥深さだ。
まだまだ未知の領域がある。

前回のブログで最後のところが上手く書けていない感じで気になってしまった。

つまり、右や左、上や下があるのか分からない、ということなのだけれど、
なにも昨日や今日思いついた話ではない。
ある意味でずっとそんなことを考えている。

凄く単純に言ってしまうと、人は自分というのがあって、
あ、ここに木があるな、と見て、時間が真っすぐに進んで行くと思っている。
過去があって現在があって未来がある、と。
でも、ちょっとでも違う次元に触れた経験があると、そんなことは言えなくなる。

例えば、だけど、僕の仕事と言うか生き方でもあるけれど、
人のこころというものに近づいてみるということをしてみる。
これが一対一の初期的な経験でさえ、相手の気持ちが自分の中で体感される。
少しでも深く入れば、もうどこまでが自分でどこまでがその人なのか分からなくなる。
繰り返すが、これは初期的な経験に過ぎない。
これが場という、もっと複雑な要素で出来ている空間に身をおくと更に、
話はややこしくなる。
身体の感覚が小さくなったり大きくなったり、無くなったりもする。
場は個が集まったものではなく、どの個からも現れない何かが現れるものでもある。
そういう経験を追求して行くと、
自分とか意識とか、世界とか、こころという言葉が何を意味するのか分からなくなる。
厳密に言おうとすれば、無限の動きが流れているとしか言えない。

何か流れて形になっているが、その形も動いていて次の形に向かっている。
そういう、言うに言えない動きだけがある。
自分とか木とか世界といって固定出来る何ものもない。
確かなものはないし手応えもない。
絶えず動き流れている。それが現実なのだと思う。

僕が持っているお能のDVDで名人の舞を見ていると、不思議な気持ちになる。
その名人は身体だけを使って、コマ送り、クローズアップ、スローモーション、
と様々な場面を描く。時間も空間も揺らぎ、確固としたものが無くなる。
身体がバラバラに動いたり、自然に流れたり、
過去と現在と未来は直線ではなくなり、混ざり合う。
すでに舞っている名人は人間ではない気がする。
自然や宇宙がそこにある。

身体を使って世界を断片化しバラバラにして混ぜ合わせて行く。
ある意味で徹底的に自然をいじって作り替えているわけだけれど、
そこになぜか自然さがある。
それは存在しない現実を作り込むわけではなく、
現実の奥にあって普段は見えていない本当の現実をつかんで行く行為だ。
お能が宗教や哲学と違うところは、そういう次元を信じろと言ったり、
言葉で描写したりするのではなく、実際に自分の身体で見せるというところだ。
お能と言うか、その名人がだろうけれど。
世阿弥が幽玄という言葉で表現している世界は、
名人においては具体的に見せることの出来るものだと言える。

そして、舞が終わると夢の後のように跡形なくその世界は消えている。
幻のごとくと謡が入ったりしている。

あの名人が舞っている時にはどんな風に世界が見えているのだろう。
きっと流れる色彩が無限に重なっては消えて行く、
しんじの絵のように見えているのだろう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。