2012年6月16日土曜日

2度とない今を生きる

梅雨に入った。
雨の匂いもいいものだ。
なるべく室内にいようとするから、普段より落着いた生活にもなる。

さてさて、今月はずいぶんお問い合わせが多い。
順番にご連絡しております。
まだ、ご連絡がいっていない方はしばらくお待ち下さい。

たくさんの方が、興味を示してくれるということは有難いことでもある。
どんな場合もなるべくご期待に添いたい。
今の時期は伝えることを重視していく。

木、金曜日はアトリエが休みの日だけど、
その日に打ち合わせがあったり、外にお邪魔するお仕事が多くて、
悠太とゆっくり過ごす時間がなかなかとれない。
まあ、普段はなるべく早く帰ったりして、
一般のご家庭よりは家族との時間が持てている方なのだが。
一日休みにするとなるとなかなか。
そんなわけで久しぶりに休みにして、
よし子と悠太とお出掛けした。
悠太のはじめての高尾山。(僕がエルゴに背負って歩くのだけど)
外を歩いている時から思っていたが、悠太の自然への反応はとても敏感だ。
まだ一才にもなっていないが、こんな時から自然に触れさせていきたい。

以前、大きな大きな木の夢を書いた。
あの夢の木の感触は時間と共に、少しづつ薄れていった。
なまなましい感覚が消えて行くと共に、
今度は悠太の視点が自分に再現されるような、不思議な感覚が芽生えた。
散歩している時に視線をおっているうちに、ちょっとづつ。
最初は景気を見ている悠太の眼を見ていた。
それが悠太の眼から見えるようになってくる。
あくまで感覚の話だ。
こういうことは、ある意味で普段のアトリエで、
作家たちと一体になろうと日々訓練して来たからおきるのかもしれない。

あのどこまでも無限に広がる巨大で不思議な木について、
僕は悠太から見えている景色かもしれないと、解釈してみたが、
多分、それだけではないような気もしている。

それはともかくとして、毎回書くことだが、
この一回のアトリエが限りなく貴重なものに思える。
今、ここで創られている場は、今ここにしかない。
その一回限り。一回こっきりだ。
そこにこそ命があり、そこにこそ大切な事のすべてがある。

それは生活においても本当に一緒だ。
今の悠太には今しか会えない。この時にしか。
2ヶ月前の悠太はもうここにはいない。
だからこそ掛け替えのない瞬間を生きていく。

仕事も家庭も全力で向き合っているつもりだが、
やっぱり、出来てない部分が多いだろう。
よし子やゆりあが不満を持っていないとはとても言い切れない。
でも、最低限、こっちのことが忙しいからこっちのことが出来ない、
という逃げ方だけはしないようにしよう。

再生機というものがある。
CDやDVDや写真など。
僕も今や音楽を聴くのはほとんどCDだ。
(昔はプレイヤーを持ってなかった。ほとんどコンサート)
再生機で何が再生されるのだろうか。
素晴らしいものほど、再生も再現も出来ない。
映画だって何度も見れると思っていても、実はその時にしか見えないものがある。

時々、あの時にあの本を読んでおいて良かったと思う時がある。
ということは、本だっていつ読んでも同じではないということだ。
本を読むのも、音楽を聴くのも、映画を見るのも、
自分にとっての体験であることは、おぼえておきたい。
体験は2度と再現出来ないものだ。

特に本を読むということが、情報を得ることに変わって来ているように思う。
読書は体験であって、情報を集めることではない。
大事な場所に線を引くような読み方では、本を体験出来ない。
情報ならインターネットで充分かもしれない。
(情報としても実は大切な情報はネットには出ないが)

僕達、アトリエの人間としては、最も大事なのは日々の教室だ。
昨日良かったから、そのままで良い場が出来る訳ではない。
今日も創ることが大切だ。
場があるから、人が共感してくれる。応援してくれる。
いる人が喜んでくれる。関わる人間も幸せを感じる。
それはすべて日々、良い場を力を合わせて創っているからだ。
この一回限りの場なくして、外で偉そうなことを言ったり、
言葉だけで書いたり、大袈裟に取り上げられたりしても、
なんの意味もない。
場が充実していてこそ、他の活動も意味をもつ。

今日も大切な大切な場を、みんなと一緒に創っていく。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。