2012年11月25日日曜日

分からない

早起きは三文のとく、という言葉は日の出が見られるからだろうか。
犬の散歩コースを変更して、あんまり朝日がきれいなので反対方向へ歩く。
これを書いている今もまだ朝日の力はある。
光の透明感、神々しさ。
少し標高のあるところに暮らしていた頃は、
どんなに夜が遅くなっても日の出が見たくて早起きしていたこともある。
日の出の光。透明な、赤でありオレンジであり黄金の色。
それはいつまでも特別な何かだ。

そういえば先日は、これも唖然とするほど美しい黄色を見た。
紅葉した銀杏なのだけど、輝きが凄くて別次元のようだった。

美しいものって、変ないい方だけどがっちりと存在していないような気がする。
あわいというか、あるか無きかのような。
ある意味で存在が薄い。存在感は強いのだけど。
それに少しの時間しかもたないで、すぐに消えて行くものが多い。

毎日、絵を見ていても、やっぱり描き上がる瞬間や、完成したばかりのものは、
特別な美しさを持っている。
色が乾くと少し衰えるという物理的な要因ばかりではない気がする。
その時間のそのプロセスの中でしか見えない何ものかを、
その場にいる人達は感じるのではないだろうか。

土曜日のアトリエ、久しぶりにゆうすけ君の絶好調の作品。
彼は描き続けて、今では円熟した作品になっているが、
色んなことを経験して、深みがでたぶん、
初期の頃の明るく健康的な力は少し失ってしまった。
今は今にしか描けない世界があるのだから、それはそれでいい。
でも、こうして時々、初期の頃のような感覚と、
今の彼の世界が良いバランスで融合するときがある。
描いている時、やっぱり日常での彼とは全く違う次元にいる。
たたずんでいる雰囲気は僕らなんかとは格が違う存在なんだなと思わせられる。

最近、ハルコがよく「佐久間さんザズ聴いてね。佐久間さん好きそうなザズ」
と言う。ザズはジャズ。
「佐久間さん、きのう聴いたよ。デーブス」
「マイルスデイビス?」「そう」

頭の中で何度も何度もリフレインされるフレーズがある。
バグスグルーヴという曲。
マイルスとモンクが共演したものだけど、
ある時期、この曲を聴きすぎて歩いている時はほとんど頭の中で、
曲がなり続けていた。マイルスは芸術的な繊細な演奏で素晴らしいけど、
ここではやっぱりセロニアスモンクが凄い。
モンクのリズムは不思議な魅力がある。
いくら聴いても分からない音楽だ。

分からないという感覚は実はとても気持ちがいい。

そうだ、実はこのことだけは書いておきたいと思って書きはじめた。
忘れてしまいそうなので書いておこう。
これも確かな情報ではないのだけど、
かなり前に本屋さんで立ち読みしていて、
そのまま出て来てしまって、今ではもう調べようもなくなってしまった。
不思議なことに時々、その事を思い出してしまう。
ちょっと気になるテーマなのかも知れないが、
かといってそれ以上調べる気もおきないことは事実だ。

なんという題名の本だったか、それすら憶えていない。
もしかしたら、その時読んだ数冊の本がまじった記憶かも知れない。
とにかく、宣教師がアマゾンかどこかの奥地へ行った調査の記録だ。
確か、言語学とか、言葉を研究しにいったのだったか。
そこで、こんな話しがあった。
人間というのは明るくなったら目覚め暗くなったら眠る。
それは体内の機能がそのように出来ている。
詳しくは知らないが交感神経が副交感神経と切り替わったりとか、
生理的な動きというものは、この昼と夜のバランスで成り立っている。
人間の身体は自然に順応してこういうバランスになっている。
でも、この事実を覆す人達も生きていると言う。
そこで暮らしている人達には昼とか夜とか、そういう区分がないらしい。
暗い時間に連続して寝ると言うこともない。
そうなってくると現代の医学でいう、
生理的な「本来の人間の機能」というのも絶対ではない。

この人達は更に言語学上も、学説を覆す特徴を持っていると言う。

こうやって、人間を分析して研究して、
こうなっていたと分かって来たことでも、
それに全くそわない生き方をしている人達が、この世界のどこかにはいる。

こういうことは、本当に面白いなあと思う。
簡単に片付けたくはないけど、つまり、そう簡単に分からないぞ、ということだ。
人間なんてそうそう分からないよ、と。
そういう事実を知ると、むしろ、面白いし、人間はいいなあと思う。

例えば、寝ない人達とか、食べない人達がいても何の不思議もない。
(そういう個人がいるという話しはあるようだが、ここで言っているのはあくまで文化とかそういうレベルでのこと。)

人間はこうやって出来ているから、こうするのが正解とみんな思っているけど、
実は結構思い込みである可能性が高い。

そんな中で例えば、ダウン症の人たちを一般の社会のルールに適合させれば、
それでいいと考えることになんの疑問も抱かない。
さらには、産まれる前から、診断して、それで、一体どうしたいのだろうか。

実は何も分かっていないし、もっと違う在り方も出来るかも、
という感覚は多くのものを与えてくれるだろう。

僕はダウン症の人達と過ごして来て、
たくさんのことに気づかされて来たし、
見えていなかった多くのものが見えるようになった。
存在すら知らなかった世界を認識することが出来るようになった。

だから、ないことになっているけど、他の世界もあるということを言いたい。
もう一つの世界と言っても良いけど、こっちの方が豊かだよ、と言いたい。

まあ、そういうテーマはこれまで随分書いて来た。

そう、そのアマゾンかどこかの人達は、
自分とか他人とかを分ける言葉を持たないらしい。
言葉がないと言うことは、そういう認識がないということだろう。

さて、自分と他人を分けたところで何が分かるのだろうか。
そんなことを考えると、彼らと私達ではどちらが正解か分からない。
というより正解など存在しない。

分からないという感覚を持つことは良いことだ。
分からない時は感覚が敏感になるし、こころが動く。
分かるときや知っているときは実は人間としての能力は弱まっているのではないか。

僕自身は今日もダウン症の人たちの制作に向き合うが、
ここでも、何も分かってはいないのだ。
場に入れば、自分が何をすべきかは分かる。
でも、なぜそうなのかは分からない。
言い換えれば、何も分からないのに、どうすれば良いか分かる。
これは作家たちもみんなそうだ。
この場で何をすれば良いのか、みんな分かる。
何も知らなくても、出来る。
分からないで分かるというか、
分かる分からないというのとは違う分かり方で分かる。
(これも何だか分からないか)

分からないことはいいことだと思う。
少なくとも分かるという思い込みよりはるかに楽しい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。