2012年11月10日土曜日

リズム

年末に向けての作業が始まっているので、
このブログではなるべく大きなテーマや纏まった話は扱わないようにしている。
でも、こんな時期に限って言わなければ、という話題が出てくる。
その一つは出生前診断なのだが、またいずれテーマにあげたい。

それからまたテレビが情報源で申し訳ないが、
先日、インターネットの危険性を訴える番組を見た。
具体的に脳にどのような影響をあたえるのか、という部分まで話していた。

コンピューターに対して消極的な話をすると、すぐに年寄りじみた見解にとられる。
だが、昔は良かったというレベルの話題ではない。
危険性、リスクを考えないで無意識化していくと原発と同じになる。

当然、僕達もパソコンを使っている訳だし、このブログもそうだ。
先日お伝えしたフェイスブックも赤嶺さん、稲垣君の努力で好評だ。
しっかりとした目的の為にビジョンを持って使っていく。
使い方次第だ。

出生前診断にしても、インターネットにしても、
その背景にどんな考えがあるのか見極めた方が良い。
一言で言うなら合理主義だ。
合理主義は地域的に言うなら西洋から生まれた最も強い思考法で、
はっきり言って際限なく暴走する。
すべてに整合性を見つけ、管理し把握出来るものに纏める。
その際、その思考法にとって無駄と思われるものは排除される。

今や西洋だけではなく世界中の人達が、
この思考法を無意識のうちに身につけている。
すべては知ることが出来るし、
分かることが出来ると思い込んでいるのはこのためだ。
こういう考えに毒されていくと、人間はどこまでも自分勝手に暴走する。
便利さのために環境を破壊して来たのはその一例にすぎない。

合理主義的な世界観の中では、
この世界のすべてがその中に収まっているように見えてしまうが、
それは人間の脳みそ、頭の中だけの世界だ。
近代の文明は脳の中に閉じ込められて、その外に出られなくなっている。
その場所で自滅していこうとさえしている。

もう一度、考えてみよう。
今、ここで見えている世界がいかに多様に見えようと、
それは人の創り出した物にすぎない。
本当の自然や世界は私達が知り尽くせるほど小さくはない。

合理主義は西洋から来たと書いた。
だが、東洋人の合理主義の方がはるかに危険だと言える。
なぜなら、西洋の合理主義には背景となる考えがあるのに対して、
東洋にはないから、はどめがきかなくなる。

ここで西洋型合理主義の根幹にどんな世界観があるのか考えてみたい。
それを知っておくことで、この考え方の可能性と限界を見る必要がある。
そして、それを超えて行かなければならない。

ここまで書いて来てふと思うのだが、
ダウン症の人たちや作品となんの関係もない話題だと思う方もいるだろう。
それは違う。
私達からなぜ、ダウン症の人たちのようなこころが失われているのか、
という問題と直結している。
私達が合理主義に毒されていなければ、
ダウン症の人たちのようなこころの在り方がもっと理解出来る。
もっと言えば人間が合理主義によってこころの機能を失う前の、
こころのありようを示しているのが彼らの存在だ。

さて、合理主義の背景にある世界観だ。
これを西洋の思考法の極意と言っても良いかも知れない。
それは西洋型の芸術、科学、宗教、すべてに行き渡った、
ある種、神秘的な世界観だ。
西洋型の芸術、科学、宗教の一番奥にはこの世界観があるし、
すべての道はここへ通じている。
西洋の偉人や天才はすべてここに到達している。
やや難しい考え方だけど、一言で言おう。
この世界のすべてのものは全体へ繋がっている、と言うことだ。
これを最も上手く表しているのが、西洋の生んだ音楽であるクラシックだ。
僕自身も実はクラシックを聴いているときに、このことに気がついた。
だが、クラシックについてそういう角度から語られることはあまりない。
評論家ではただ一人、許光俊という人がこのことをはっきり自覚している。
彼の本はみんないいが、ここに書いたような考え方を分かり易く書いているものに、
「クラシックを聴け」という本がある。
ここで、彼はクラシックの世界観を纏めている。
「部分は全体であり、全体は部分だ」という風に。

クラシック音楽では、曲の中に様々な主題が登場し、
その都度、耳に印象づけるが、意味は分からない。
そういう様々な主題が分からないまま、何か繋がっているなと感じながら、
心地良かったり謎めいたりしながら、音楽はどんどん進んでいく。
そして、最後のクライマックスに至って、すべての謎は解けて、
今までの主題のすべての意味は明らかになる。
すべては一つの絵のパーツだった。その絵の部分だった。
部分が集まって全体の絵になって、その絵が最後に見える。
ここで聴いている人は気持ち良くなるわけだ。

これはかなり深い世界観なのだけど、限界があることを忘れてはいけない。
最後に見える絵が、どれだけ神秘的に見えようと、
実は人知を超えていない。
一つに繋がった宇宙がどれだけきれいでも、
それは人間が創り出したものにすぎない。
完璧な秩序と調和があるが、どこか理性的で人間中心的だ。

前回、自由について書いた。
そことも繋がって来るが、ここにある人間の頭脳が創り出した秩序には自由はない。
自由はこの秩序を壊すだろう。
だから規制する必要がある。
ところが、自由について書いた時にいったが、
この秩序を壊しておくに進んでいったとき、実はもっと本当の秩序がある。
個性についても同じことが言える。

クラシック音楽に現れているような秩序とは、
あらかじめ、自由や個性を抑制し、すべてをパーツにして、
扱いやすくした上で全体を作って繋げていく。
きっちり整合性がとれるように、自然を変形させている。
人間によって創られた秩序であり調和だ。
音を12音階によって把握することも(倍音等、西洋以外のほとんどの音楽で重視されている要素が排除されていることは言うまでもない。絶対音感とは世界中の人間が英語でしか話せなくなっている状況に近い。)、色を補色や色彩論でくくることも、
人の手で扱いやすくするためだ。
勿論、それらはこの宇宙の原理の一部ではあるだろう。
でも、本来の自然界はもっと奥深い。
人間が創ったものではない本物の秩序が存在する。
それは合理的でもなければ、人から見た整合性がある訳でもない。
もっと揺らいでいたり、裂け目があったり、ぶれていたりする中に、
本当の一体感も秩序も存在している。

そんな訳で、人間中心の全体ではなく、一人一人の固有のものがある。
その固有性がリズムだ。

今回も長くなってしまった。
リズム2を書くかも知れない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。