2013年1月20日日曜日

生きる意味

相変わらず寒い日が続いている。
朝、犬の散歩で外へ出ると、冷たい引き締まった空気と、
冬の日差しが清々しい。
ここにいて、こうして歩いていることに感謝したくなる。

一人暮らしにもようやく慣れてきた。
昨日は生徒保護者の方達がキッチンを整理して下さり、
それから美味しい食事まで作っていただいた。
みんなで食べるということはやっぱり大切だ。
普段、一人で食べているので、こういう機会は本当にありがたい。

よし子のブログのゆうた観察日記を読んで癒されている。
面白いなあ、可愛いなあ、と思うのは親だからだろうか。
でも、最近、外を歩いていても赤ちゃんを見掛けると可愛くてしかたない。

東京アトリエに関しては、以前より確かに責任が重くなったわけだけど、
内面的にはなんだか楽になってきた。
これは場に対してもそうだけど、僕自身が変化してきている。
今まで自分を縛ってきたものや、自分に課してきたことが、
自分から離れつつある。

追求してきた。深く入るために、自分を律してきた部分は大きい。
追求には終わりはないし、一生続くのだけど、ここで一区切りだ。
今はより開かれた場にしていきたいと思っている。
そして、それが出来る時期にようやくきたということだ。
作家たちも場も僕も、ずいぶん成長した。

場に関して、もう多くは語らないけど、
一つだけ書くとすれば、
「場に入る」という言い方をしてきたが、
本来は場を自分の身体の様に感じられるくらいにならなければいけない。
そうなれば、何も難しいことはないだろう。

場にたいしての「感じ」は段階によってどんどん変わっていく。
一度、変わると前には戻れない。
僕自身はこれまでの様な探求型はもう卒業したと思っている。

それにしても、アトリエも生活も楽しいし、
後はゆうたとの時間をどうやって作っていくかだ。

文字をあんまり読まなくなってしまった。
暇があると見てしまっていたテレビも、ここのところぜんぜん見ない。
音楽だけは繰り返し聴く。
レゲエとダブ。と言ってもほとんど同じもので3、4枚のCDを何度も聴く。
リズムがここまで身体に入ってきたときはなかった。

僕はある意味で言うと「むこう側」の世界から見えることを語ってきた。
普段、当たり前だと思って生活している世界がすべてではないと。
今、作られているこの現実だけが現実ではないと。
自分が変われば、見えている世界も変わるということを。
それはダウン症の人たちの価値を認識するためばかりではない。
「これがすべて」という思い込みは本当に危険なものだ。
今の世界が抱えている問題のほとんどが、この思い込みから生まれている。

だから「むこう側」を語る必要がある。
もっとむこう側も確かにあるよ、それはこんなだよ、と。

でも、気がつくといつの間にか視点が変わっていた。
ずっと前は「こちら側」から「むこう側」を見て、入ったり語ったりしていた。
いつの頃からか、むこう側はむこう側ではなくなった。
自分のいる場所が「むこう側」になっていた。

今、誰しもが汚染された世界の中で、
人類の進むべき道も見えず、漠然ととほうにくれている。
世界の危機は急速に進んでいる。
誰も答えを持っていない。何が起きるのか分からない。
何が起きてもおかしくない。何をすべきか、正解はない。
たった一人で、世界の前に立たされている。
この感覚を忘れない方が良い。
ここからしかスタートはないのだから。

場を見てきて、言い換えれば人のこころの奥深くに分け入ってきて、
言えることはただ一つ。
すべてを大切に丁寧に扱おう。
この一瞬のかけがえのなさを実感していよう。
次の自分の行為を最後の仕事だと思って、こころを込めておこなおう。

たった一人の人間が何か一つでも良いことが出来れば、
何かが始まる。そして、その一人が集まれば、世界は変わる。
少なくともその可能性に賭けてみたい。
それが生きる意味、この世界に生まれてきた理由だと思うから。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。