2013年1月15日火曜日

普遍を超える

昨日の雪で今日はみんなが来るのを心配していたけど、
無事にアトリエで楽しく制作することが出来た。
まだ道には雪が積もっているけど、だいぶとけたようだ。

アトリエは細かいところを変えながら掃除中だ。
少しでも来てくれた人が居心地が良くなるように。
待合室も少し奇麗になった。

朝、玉葱とジャガイモが古くなりそうだったので食べた。
ジャガイモは茹でただけで、玉葱はオーブンで焼いただけなのに、
時間がかかってしまってブログを書けなかった。

今日は借りていた家の鍵を返しに行って来た。

洗濯機がエコモードというのになっていて変えられない。
でも、普通に洗濯出来るからいいか。

一日がすぐに過ぎていく。

それにしても最近、少し無駄な力が抜けて来た様な気がする。
こだわりも減って来たし、人の意見を聞いて自分の考えを変えるようになった。

本当に今まで力を入れすぎていたようだ。
僕にとって今は変わり時だなと思う。

例えば、強烈な意思の力の様なものがあって、
実はこれは場のようなものを動かすとき必要不可欠な要素だ。
でも、そういう意味ではそういう意思の力は以前より弱くなっている。
そのお陰で柔らかさや、力が抜けた状態になれている。
全体としては良いことだと思っているけれど、
自分が何を失いつつあるのか見ていなければ、次に対処出来ない。
意思の衰えは体力の衰えでもある。
30代で衰えなどないと普通は思うだろうが、
こういった事柄ではおおいにあり得る。
10代が一番勢いがあるくらいだ。
意思の力というのは「何がどうなろうと、絶対にここまでもっていく。絶対にここは動かさない」という強い決意だ。
これを言葉で書くと強引で乱暴に聞こえてしまうが、決してそんなことはない。
この力がないとまとまらない部分は多い。

今はなかなか、そんな強い意志を持ち続けることは出来ない。

そのかわりもっと大きな流れに入ることが出来る。
もっと優雅にいることが出来る。

流れがあるから、流れに任せたり、自分以外の人や状況にゆだねる。
完璧じゃなくてもいいよね、と思える。
そう思えることで流れが良くなる。
以前では見えていなかったものが感じ取れる。

場に関してももともと、ひきで見ることは大切な要素なのだが、
最近はよりひいた視点に入っている。
確かに一体感は以前より弱い。
でも、人や場がより活き活きすることがある。
善くも悪くも影響力が弱くなるからだ。

最終的に言うなら、僕らの仕事はただ見ていることにあるので、
手をかけること、力を加えることをなるべく控えなければならない。
僕自身は何者でもないのだから。
作家たちが描く、作家たちが活きるのが場だ。
僕はそこではただいるだけだ。
マンションで言えば管理人だ。僕が住む訳ではない。
あるいは良く話すことでもあるが、場ではプールの監視員みたいになればいい。
高い椅子に座って見渡しているだけ。
みんなは楽しく泳ぎ回ったり、真剣に練習したりしている。
何をしようとただ任せていればいい。
溺れたり危険な状況になったり、人に迷惑をかける人が居た場合のみ、
僕は動けばいい。

そういう意味においては少しづつだけど、場だけでなく、
組織の中で、あるいは生活の中での力を抜けるようになってきた。

意思の力だけではなく、人間としてのあらゆる力は減っていったり、
衰えていったりして最終的にはなくなってしまう。
そうなった時、もっと大きな流れの様なものを知っていなければならない。
抜くということも出来るようになっていなければならない。

いつの段階でも、場は教えてくれる。現実は教えてくれる。
僕自身、次を見つけていかなければならない。

相変わらずダブを聴いている。
以前は聴こえなかったものまで聴こえてくる。

今日はもう一つだけ書いておしまいにしよう。
毎回どこかで書いておきたかったことだ。
このブログでもときどき、どこかで誰かから聞いたとか、
テレビで見たとか、確か何かに書いてあった、
と言った様な不確かな事柄をテーマにすることがある。
そのことで思うのだけど、なぜ、調べて確かめて書かないのか。
何も調べることが面倒なわけではないし、そうする時間がないわけでもない。
確認しておいた方がこちらもすっきりするし、安心でもある。
多分、これがもっと以前だったら僕もそうしていただろう。
ある時期から感覚的にそういう世界とは違うところに行ってしまったのだと思う。
何かを思い出す。あるいは聞く。
その時、そこから何かが見える。そうだ、ということはこうかも知れないぞ、と。
その発見は面白い。そこから先、ではここで得た情報を調べてみよう、
と思った瞬間に、そういうものがバカバカしく感じられる。
言葉ではうまく言えないが、確認するという行為自体がなにか嘘くさい。
そんなものより、さっき見えたもの方が本当だと確信する。
この2つの世界には開きがある。

例えば、またぎという人達がいる。猟師のよいうな人達だ。
いわば自然の最も近くに生きている人達だ。
そのまたぎの人が世間話でよくエコロージーをバカにしている、
エコロジストしょうがねえ、と言っているという。
これは誰かから聞いた話だ。これなんかもいい話だなと思うけど、
分析してもしかたない。
本当に自然に生きている人からは、
エコロジーなんてそんな風に見えるといういことは大切だが、
そんな説明をするより、またぎはエコロジーが嫌いらしいと言った方が、
よっぽど何かが伝わる気がする。

そこで僕は普遍化できないものや、今の状況にしか通用しないものの価値を感じる。
そういうことを大切にしたい。
一般的にはこうなのだけど、ここではこうした方が良いなとか、
それが正解なのだけど、今は正解しないでこっちに行った方がいいなとか、
こうすべきなんだけど自分にはこっちの方が正しいとか、
この人にはこの方が絶対にいいとか、そういう感覚は大事だ。

平等とか、普遍とか、正しいとか、いつでもという、
そういう世界だけでは見えないものが確実にある。

人の感覚は狂いやすいし、人は自分を妄信してしまって他が見えなくなることがある。
それが危険だから、しっかりと基準をもつことが必要だし、
僕も基本やセオリーどおりで80%は進めていく。
でも、最後に頼れるのは自分の感覚だけだ。
そして、最後のところでは自分の感覚を疑ってはいけない。
自分の感覚だけが命綱になる。
何かが自分を保証してくれることはないし、
誰かが良しと言ってくれるわけでもない。
自分がたった一人でその場に立っている。
そこで信じられるのは自分の感覚のみなのだ。

だからこそ、いつまでも調べて確かめる世界にいてはならない。
そんな世界を出て、もっと違うところに行かなければならない。

そこに何があるのか、僕にも分からない。
ただ、毎日新しい何かが見えてくる。そんなことの連続だ。

ここまで書けば何の為にこの話題に触れたのかお分かりいただけたことと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。