2013年5月29日水曜日

ちょっとだけ続き

雨がちらついてきた。
今日もみんなに良い時間を過ごして欲しい。

昨日のブログで「おおかみこども」を見た感想を少し書いた。
これは女性の、そして母の物語だ。
けれども、僕達にとっても身近に感じられるのは、
やっぱり女性性とか母性といったものは男にもあるからだ。

それから、またまた制作の場での話になってしまうが、
僕達スタッフに大切な要素としてあるのも、女性性とか母性と関わっている。
つまりは見守る視線なのだけど、
僕はこれについてはけっこう自覚的にずっと考えてきた。

自分の中の母性が強く動かなければ、場や人に安心感を感じさせることは出来ない。
けれども、以前も書いたが母性は危険でもある。
距離の近さが僕達を盲目にしてしまう。
自分も相手も母性に溺れると出口を失う。

生命力というものは、切ること、区切ること、分けることによって、
グーッと湧き出て来る時期ある。
母性は一体化が強過ぎてそのタイミングを逃してしまう。

どこまでも抱きしめ、一体化するが同時に客観視している状態。
深い愛とともに、醒めた俯瞰する眼差し。
そういった状態でいなければ、僕達は良い動きが出来ない。

映画の中で母親は小さく弱かった頃の雨をいつまでも抱きしめている。
雨が一人で進みだしても、どこかで泣いているのじゃないかと心配し、
自分が抱きしめて守ってあげなければと切実に思う。
あのシーンは本当に切ない。
母性ゆえに雨の自立した姿が見えない。

ずっと「大丈夫」を言ってもらっていた雨。
背中をさすってもらっていた雨。
その場面がちらついて悲しい。
でも、雨はもう違うところにいる。

花がいつまでも少女なのも、女性を良く表している。
花は母であると同時に少女だ。

その意味で本当の女性性や母性の可能性を実現しているのは雪だと思う。
この物語が雪の眼差しで語られていることも大切だ。
雪には母性の限界を突き抜けたやさしさが感じられる。
雪には母性と客観視が同時にある。
彼女がその視線を獲得出来たのは、小さな頃から2つの世界に引き裂かれ、
どちらでもない自分を見つめてきたからだろう。
花はおおかみ男を愛した人間であり、
雨はどちらかと言えばおおかみとして生きて行く。
雪はどちらでもない。
おおかみと人間の間を入ったり来たりしながら、
おそらく一番悩み抜いて自己を確立している。

雪の母を語る時の愛情は客観視と母性が共存している。

草平という男の子との出会いが雪を大きくしたことは間違いない。
一番感動的なシーン。
雨が降る中、教室の窓を空け、雪は草平に自分がおおかみであること明かす。
揺れるカーテンごしに雪の顔がおおかみになり、また人間になる。
このいったりきたりが雪という女性だ。
おおかみであることを伝える訳だけど、
このシーンはおおかみでも人間でもない雪を象徴しているし、
この場面で初めて雪はそんな自分を自覚し、認められたのだと思う。
父のことも母のことも、雨のことも愛情に満ちた眼差しで穏やかに語る雪は、
やっぱり本当の意味の母なる存在なのではないだろうか。

そして、子育ての中で僕達が気づいて行かなければならないことは、
子供は半分は自分達の分かる世界に属していても、
半分はおおかみなのだということだ。

雪のようにすべてを愛し、すべてを受け入れ、一生懸命生きて行きたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。