2013年5月28日火曜日

母なる感情

雨が降り出しそう。
もう梅雨に入るのかも。

平日のクラス、イサが責任を持って良くやっている。
今日はイサの誕生日。
あきが紙で創ったケーキを、はるこが折り紙で創ったロウソクをプレゼントしていた。
ケーキの上にロウソクをのせて、みんなで笑っていた。

合宿のプリントが三重から届いたので、これから配ることになる。
前回の合宿のことをイサと話していた。
帰りの日に奇麗な虹が出て、みんなが同じ虹を見ていたこと。
虹見てって、みんながその日、メールしてきたこと。
なつかしいなあ。

あの虹を離れた場所からみんなで見ていたように、
僕達はいつでも繋がっている。
そういう景色を一緒に見るために、こうして続けている。

さて、今日は全く別のことを書くつもりだったが、ちょっと気分が変わった。
最近はそんなことが多いなあ。

はるこが「ゆめかあ」とまたつぶやいていた。
はるこのその言葉を聞く度に、こんなすべては夢のようなものだなあと感じる。
これまでの月日も本当に夢のようだし、
みんなで場に入っている時間はいつでも夢の中。

何度も書いているが、夢の中にいるような感覚や、
どこか遠くにいる感じや、今が過去であるような感覚が、
アトリエにいる時のいつもの感じであったりする。

この前たまたま、あるピアニストのインタビューを読んだ。
演奏中におきている感覚について「サウダージ」という言葉を使っていた。
サウダージと言うのは、たしかポルトガル語で、間違っているかも知れないが、
郷愁というか、ある強烈な懐かしさのような感情を意味している。
僕はサウダージという言葉自体にサウダージを感じる。

結局のところ僕がダウン症の人たちに惹かれるのも、
サウダージを感じるからだ。

戻って行く、遡って行く、遥か昔やかつてを見つめる。
どこまでも帰ろうとする感情。

本当に良い時間を過ごしているとき、(僕らの場合はほとんどが制作の場でのこと)
ずっとずっとここにいたし、ずっとこうだったんだな、
という懐かしさが蘇って来る。

あきこさんに借りていた「おおかみこどもの雨と雪」のDVDを見ていた。
いつもは多角的に見たり、分析的に見たりしてしまうのだけど、
今日はそんなことが出来なかった。何故だろう。
これが本物中の本物の作品かと聞かれれば、そうは思わない。
でも、今、僕はこれを見て涙が止まらなかった。
やさしくて、寂しくて、悲しくてかなしくて仕方なかった。

なにもかもが過ぎ去って行く、すべてが過去になり、
遠い彼方へ消えて行く、といういつもいつも考えることが、
はかなく、もろく、切なかった。
今いる人達はみんないなくなる。
ここにあるものはみんななくなる。
でも、だからこそ、すべてが大切で、すべてに優しくありたい。
だからこそ、いつでも人を愛したい。

この映画では母の視点が一番クローズアップされていた。
大切に思う人とずっと一緒にいることは出来ない。
ということは良く経験することだけど、
その最も典型は母と子ではないだろうか。
大人になって自立して強く生きて欲しいと、願う。
それはとりもなおさず、自分を置いてどこまでも遠くへ、
手の届かないところへ行ってしまう寂しさを引き受けることだ。

当然のことだけど、雨が母の元を去って行ったのはオオカミだからではない。
母と子であるなら、必ずこうなって行く。

映画を見ながら僕は母にも子にもなっていた。
それからおおかみ男にも。

もう2度と自分の元へは返って来ないであろう子を見つめる母の愛情。

母として、すべての母としてこの世界を見つめてみる時にどんな情景が見えるのか。
僕はいつの間にか母なる視点ですべてを見ていた。
あるものすべてを抱きしめて、何処までも遠くへ行くのを見守っていた。

生きることは辛いことで、悲しいことだ。
悲しいから愛に満ちているとも言える。

毎回、書いていることだけど、本当に今しかないということだ。
そして、みんなみんな幸せになって欲しい。

さて、透明な悲しみと慈しみの感情を持って、
日々の場を創って行きたいし、毎日を生きて行きたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。