今の時間が縦にも横にも繋がっていて、
もし人の芯に入って行くものとなるなら、それはかけがえがない。
人は人と向き合う時、事物や世界と向き合う時、
経験や意識化されていない記憶をもとにしている。
それは癖でもある。
あるいは精神的な体力のようなものがあり、
こころのバネと言っても良いものだが、
これも深い部分にある経験や記憶が元となる。
場での経験が大切なのは、
人間にとって幼少期が大切なのと同じ意味だと思っている。
人間にとって元となるものを養うことが、生命の根幹に関わることだ。
人への信頼はこの地球や世界への信頼に繋がる。
そして、そのもとは幼少期に作られた母親への信頼だろう。
甘やかすと弱くなると思っている人は多いが、
深い愛情がこころの中に入っている人間は強い。
表面的な浅い部分へ影響が行くことは簡単なのだけれど、
深い部分、芯の部分にはなかなか入っては行かない。
良い絵が生まれる時のプロセスと言うものがあり、
それはその人のこころのある領域が活性化されて来る時だ。
そのとき、同時に幸福感というものを実感している。
言い換えれば幸せと創造性は一つの場所から来ている。
場に入る、とは一人一人が幸せと世界との繋がりや信頼感、
安心感をこころの深いところで見つけること。
そしてその記憶を刻んで行くこと。
芯に入った体験は次もその場所に導いてくれる。
三重でこんなことがあった。
ゆうたはアレルギーがあるので寝る少し前とか、
寝ぼけている時とか、体温が高くなると身体が痒くなる。
いつもよしこが添い寝して身体をかき続けている。
夜中にまたいつものように悠太が痒い痒いといっている。
よしこがしばらくかいたりさすったり風をおくったりしていた。
濡れタオルで身体を拭いている時だ。
あれ、という不思議な感覚になった。
なんだろうこの感じは。感覚に集中して行くとなつかしさがやってきた。
これと同じ時間をどこかで経験している。
よしことゆうたはいつもこうしているので、その記憶かとも思ったが、
どうも違う。もっと古く深い部分にある記憶だ。
そして情景がありありと見えて来た。
祖母が居て、僕の身体を熱いタオルで拭いてくれている。
何度も濡らし絞り、拭いてくれる。
僕は身体を掻きむしっていた。
何も考えてはいなかった。ただあたたかい世界との繋がりがあるだけ。
皮膚に直接触れるあたたかさ。祖母のやさしい顔。
この情景を思い出したのは始めてだ。
こんなことがあったこと自体気がつかなかった。
でも、ここにある信頼感や安心感やあたたかさや、
そしてなつかしい感触は人生の様々な場面で僕に訪れた。
これまでこの感覚にどれだけ助けられたか分からない。
その感覚がどこから来ていたのか、僕は始めて気がついた。
僕が幼い頃、母は夜も仕事があって家にいなかった。
祖母がきて面倒を見てくれることも何度かあったと思う。
祖母は夜は家へ帰っていたから、そんなに長い時間ではなかったはずだ。
この記憶もあのとき、祖母は僕が寝入ってから家へ帰ったのだろうし、
または泊まっていった数少ない一日だったのかも知れない。
とにかく愛情は時間ではないとあらためて思う。
そして、よしこが今、ゆうたにしてくれていることは、
いつまでも彼の中に残って行く。
こうして繋がって行くことに、よしこにもゆうたにも感謝している。
人が大人になってしまうと、深い部分に入って行くことも、
そこに響く時間を創ることも容易ではない。
それでも、僕達は場を共有し、一緒に見つけ出して行こうとする。
今日も明日も制作の場がそのようなあたたかなものになるように、
一人一人にかけがえのない時間として芯に入って行けるように、
注意力を働かせて挑んで行きたい。