2014年6月21日土曜日

世界への信頼感

今の時間が縦にも横にも繋がっていて、
もし人の芯に入って行くものとなるなら、それはかけがえがない。

人は人と向き合う時、事物や世界と向き合う時、
経験や意識化されていない記憶をもとにしている。
それは癖でもある。

あるいは精神的な体力のようなものがあり、
こころのバネと言っても良いものだが、
これも深い部分にある経験や記憶が元となる。

場での経験が大切なのは、
人間にとって幼少期が大切なのと同じ意味だと思っている。

人間にとって元となるものを養うことが、生命の根幹に関わることだ。

人への信頼はこの地球や世界への信頼に繋がる。
そして、そのもとは幼少期に作られた母親への信頼だろう。

甘やかすと弱くなると思っている人は多いが、
深い愛情がこころの中に入っている人間は強い。

表面的な浅い部分へ影響が行くことは簡単なのだけれど、
深い部分、芯の部分にはなかなか入っては行かない。

良い絵が生まれる時のプロセスと言うものがあり、
それはその人のこころのある領域が活性化されて来る時だ。
そのとき、同時に幸福感というものを実感している。
言い換えれば幸せと創造性は一つの場所から来ている。

場に入る、とは一人一人が幸せと世界との繋がりや信頼感、
安心感をこころの深いところで見つけること。
そしてその記憶を刻んで行くこと。
芯に入った体験は次もその場所に導いてくれる。

三重でこんなことがあった。
ゆうたはアレルギーがあるので寝る少し前とか、
寝ぼけている時とか、体温が高くなると身体が痒くなる。
いつもよしこが添い寝して身体をかき続けている。
夜中にまたいつものように悠太が痒い痒いといっている。
よしこがしばらくかいたりさすったり風をおくったりしていた。
濡れタオルで身体を拭いている時だ。

あれ、という不思議な感覚になった。
なんだろうこの感じは。感覚に集中して行くとなつかしさがやってきた。
これと同じ時間をどこかで経験している。
よしことゆうたはいつもこうしているので、その記憶かとも思ったが、
どうも違う。もっと古く深い部分にある記憶だ。
そして情景がありありと見えて来た。
祖母が居て、僕の身体を熱いタオルで拭いてくれている。
何度も濡らし絞り、拭いてくれる。
僕は身体を掻きむしっていた。
何も考えてはいなかった。ただあたたかい世界との繋がりがあるだけ。
皮膚に直接触れるあたたかさ。祖母のやさしい顔。

この情景を思い出したのは始めてだ。
こんなことがあったこと自体気がつかなかった。
でも、ここにある信頼感や安心感やあたたかさや、
そしてなつかしい感触は人生の様々な場面で僕に訪れた。
これまでこの感覚にどれだけ助けられたか分からない。
その感覚がどこから来ていたのか、僕は始めて気がついた。

僕が幼い頃、母は夜も仕事があって家にいなかった。
祖母がきて面倒を見てくれることも何度かあったと思う。
祖母は夜は家へ帰っていたから、そんなに長い時間ではなかったはずだ。
この記憶もあのとき、祖母は僕が寝入ってから家へ帰ったのだろうし、
または泊まっていった数少ない一日だったのかも知れない。
とにかく愛情は時間ではないとあらためて思う。
そして、よしこが今、ゆうたにしてくれていることは、
いつまでも彼の中に残って行く。
こうして繋がって行くことに、よしこにもゆうたにも感謝している。

人が大人になってしまうと、深い部分に入って行くことも、
そこに響く時間を創ることも容易ではない。
それでも、僕達は場を共有し、一緒に見つけ出して行こうとする。

今日も明日も制作の場がそのようなあたたかなものになるように、
一人一人にかけがえのない時間として芯に入って行けるように、
注意力を働かせて挑んで行きたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。