2014年6月25日水曜日

反復について

このテーマではすでに何度か書いているが、改めて考えてみたい。
作家達が反復することの意味を以前書いた。
それはとても大切な生命の仕組みに関わることであるとさえ思う。

間についても、リズムについても何度か書いている。
そしてこれらは実は一つだと思う。あるいは美や調和というものも。

制作の場における僕達スタッフの役割は、
当然ながら作家達が最良の資質を発揮してくれるための条件をつくること。
その中でおおまかに言って、個人に向かう時は感じとることと共感することが、
そして場に全体に向かう時は、間使いが最も重要だ。

間が使えなければ、相手に入って行けないし、溺れてしまう可能性もある。
それから良い場にならない。

場が良くならないのは間が悪いからだ。

僕達が場に入る時、物質的な道具は一切使わないで仕事する。
生身の身体とこころだけが使えるものだ。
自分の身体とこころをどう使って行くか、その要になっているのが間だ。

間については良く考える。

またまたバックハウスの演奏を聴いている。
変わった解釈がある訳でもなく、飛び抜けた技術を駆使する訳でもないのに、
なぜあそこまで特別な音楽が生まれるのか。
無骨な音を淡々と重ねて行くだけなのに、
あんなに崇高な世界が何故生み出されるのか。
彼の音楽だけが立派なものに見え、品格が漂うのはなぜか。

聴いていてやはり間を感じる。
クラシックのピアニストは大体2つのタイプに分かれる。
音そのものの美しさを追求し磨きをかけて行くタイプと、
音はあくまで手段として曲のもつ物語、ストーリーを描くタイプ。
前者は物質的なものを、後者は精神的なものを問題にしているように見える。

バックハウスはどちらでもない。
音そのものに磨きをかけていく気などさらさらないが、
かといって曲の持つストーリーのことも全く問題にしていない。
曲の物語性を追求する演奏家は感情移入型が多いが、
バックハウスは決して感情的にならない。

バックハウスは音をただ重ねて行く。
大事なのはそこで生まれる間だと言える。

あの間が偉大さや崇高さを感じさせる。

バックハウスをずっと聴いていたある瞬間、モランディの絵がぱっと頭に浮かんだ。
バックハウスとモランディに共通する何かがある。
手元にモランディの画集がないから確認出来ないが、
なにか間が共通していて、同じ次元を示している気がする。

そして、間の背後には反復があり、反復の背後には間があるのだと、と感じる。

間と反復の繋がる場所がバックハウスとモランディの示すところではないか。

バックハウスは同じ曲を何度も何度も反復する。
それも全くと言って良いほど同じ解釈で、同じテンポで。
それどころか、曲全体をストーリーとして進行させずに、
まるで同じ音を反復しているかのように弾いている。

バックハウスが職人的な雰囲気を持つのは反復という要素によってだろう。
職人が反復して行く世界もやはり何かしら崇高なものを感じさせる。

場において同じことは2度と起きない。
全ての瞬間が一度きりなのだ、ということはどれほど強調しても足りないほど、
重要なことで、良くこころに刻む必要がある。
だが、一方で基本となる形は変わらないと言う部分もあり、
ここに反復の大切さもある。
1000回でも、2000回でも反復していく。
間が反復を生み、反復が間を生む。

そしてその反復が僕達を高いところに連れて行ってくれることは確かなようだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。