2014年11月6日木曜日

ポリフォニー

曇り。静かに雨が降ったり止んだり。
しばらく東京を空けるので、道具の注文とか早めの払込を済ませた。
物価が上がっていますね。
イサも良い感じだし、今度は少し安心して行って来ることが出来る。

もうすぐ、悠太に会える。あれから2ヶ月近くも経ってしまった。
毎日写真を見ながら暮らして来た。

前回、タルコフスキーのことを書いた。
制作に向かうという僕達の日々や、作家達の示している根源的な創造性を、
見て行った時、美や芸術を真っ正面から捉えざるをえない。

ここでも何度も書いて来たが、
生命にとって必要がないものが長く残ることはないと考える。
美や芸術だって食物と同じくらい必要な何かなのだと思う。
生命に直結しないものは、はっきり言ってしまえば無用なものだ。

そこで快、不快で判断するのが正しいということも書いて来た。
不快は生命を害するものであり、快は生命を活かすものだと。

美は人に快を与えるものであるはずだ。

では何故、美や芸術といったものが生命にとって必要なのか。
僕は思うが、人間とは絶えず感覚や知覚を広げなければならない存在だ。
何故かと言うなら、人間は自ら限界をつくり、偏った世界の中で、
感覚も知覚も閉じてしまう性質があるからだ。
ほっておくと、見えなくなるし聴こえなくなる。
本来はもっと多様で豊かであるはずの世界を狭めてしまう。
だからこそ、感覚を開くことや、知覚を広げることが日々必要となる。
それは食べることで生命が維持されるのと同じ位に重要なことだ。

人は感動したがるが、何故感動する必要があるのか。
それは今言ったような理由で感動で心を動かさないと、閉じた知覚は固まってしまう。

美や芸術が知覚を変える力や、感覚を目覚めさせる力がなければ、
それは本来の価値から程遠いものだと言える。
いや、もしかすると芸術だけではなく、科学や学問だって同じことかも知れない。

キュービズムとは何だったのか、相対性理論とは何だったのか、
時代と共に新しい概念が沢山生まれて来るのは何なのか。
それらは条件反射のように固まってしまった感覚や知覚を変えて、
本来の世界の多様さ豊かさをかいまみせようとして生まれたものだ。

新しいものに出会ってみたいと思い、
新しいものが生まれた瞬間に心が動くのはこのためだ。

前置きが長くなってしまった。
今日はポリフォニーのことを書きたい。
と言ってもポリフォニーは西洋音楽の概念であって、
僕がイメージしているのはもっと複雑でもっと原始的なポリフォニーのこと。

西洋音楽でいうところのポリフォニーとは多声音楽、
つまりはいくつもの違った線がそれぞれの声の流れに向かいながら、
重なって行くというようなものだ。
特徴的なのは主役となるラインが存在していないことで、
それぞれがみんなバラバラに動いているようで重なって来るということだ。

これまでもここで書いて来たことだが、様々な表現において、
多様なものが同時に動いている、という次元が扱われることが多い。
それが一つの究極の形なのかも知れない。

僕が時々書いて来た、沢山の時間を同時に生きるということも、
あるいは様々な経験が降り積もってその場で動き出すということも、
バラバラなものが同時に動き出すということも、ポリフォニーのようなものだ。

西洋音楽においてはフーガとか対立法とか、
たくさんの場面でポリフォニーが出て来る。
ルネッサンスやバッハは代表的な例だろう。
ただ、そこで言われる多声音楽、ポリフォニーというのは、
いかに複雑に見えても計算されたものであり、書き記すことが出来るものだ。

もっともっと複雑で即興性の高いものが存在している。
例えばピグミーの音楽。
これが頭にあったので最初にポリフォニーという言葉で言って良いのか迷った訳だ。
ピグミーの音楽は西洋のポリフォニーより遥かに多様性に満ちている。
ある意味でポリフォニーの原型と言えるかも知れない。

ここ数日、寝る時にはピグミーの音楽を必ず聴いている。
集中して聴き続けて来たので、今もずっと頭の中で鳴り続けている。
久しぶりに音楽に夢中になっている。

初めてピグミーの音楽のCDを聴いたのはもう10年近くも前だろう。
面白いと思ったし、奇麗だと思った。そして、時々聴いたりもしていた。
でも、本当の意味での出会いはまだだったのだろう。
音楽は良いなくらいのもので僕の前を通り過ぎていた。
お陰でずいぶん遠回りしてしまった。
もっと早く気づくべきだった。

これほど「場」に近いというよりは、「場」そのものな音楽は他に無い。

ほとんど無限に近い彼らの声の重なりを聴いていると、
途方も無い気分だ。まるで自分が誰だか分からなくなる。
全てが細部まで活き活きしていて、同時に鳴り響き、響き合う。
多様さ複雑さが多いほど全体の境界が存在しなくなる。
本当に場そのものだ。

これはあらゆる音楽の究極でもあるし、芸術ばかりでなく、
コミニケーションや、人間の在り方の究極でもあるとおもう。

やっぱりか、でもあり、なーんだ、でもあるのだけど、
努力して人が積み上げて来たものなんか、いったい何なんだろうと思わされる。

だって彼らはすべて持っているのだから。

ピグミーの音楽を聴いていると、人間がどんな存在なのか分かるし、
もっと言えばどうあるべきなのか、とかこの世界や宇宙の本当の姿が見える。
彼らは歌うことでそれを日々確認して響き合っているのだろう。

そして、何よりも素晴らしいのは、ここには特別な存在がいないことだ。
歌っている人達はみんな平等だし、プロもいない。
特別な努力だとか、特別な才能というものが必要だというのは、
僕達の世界の思い込みなのだと分からせてくれる。

そうかあ、やっぱりそうなのかあ、と感動する。

こんなに豊かで、全部持っている人達が生きている。
何かを創ったと思ったり、どこかまで行けたと思うのは錯覚なのだなと思う。

ある意味で最初から全部あるのだと、彼らの存在と音楽が教えてくれる。

たくさんの声が混ざり合っているのを聴いていると、
森が歌っているようでもあるし、宇宙の声だとも思う。

どこか、遠い場所に連れられて行くようで、
元の場所に帰って来たような懐かしさもある。

僕達が場に入る訳も教えられた気がする。
彼らが歌い、響き合い、世界と同化して行くのと同じように、
僕達も日々、場に入り、そこで喜び合う。
それが人として産まれて生きることの意味なのだと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。