昨日は暑かったですね。
2、4週クラスは撮影が入っていることが多いです。
昨日は午後のクラスが久しぶりに全メンバーが揃って、みんな嬉しそうだった。
最近は休みの人が結構いたから。
いつでも数名は心配な人もいる。
何もしてあげられないのだが、せめてアトリエにいる時間でちょっとでも、と思う。
そして全部のクラスがそうだが、
一人一人がさり気なく気にかけ合っている姿が素晴らしい。
ここしばらく、ゆうすけ君の作品が更なる高みに登っている。
作家にはピークというものがあって、その時期はそんなに長いものではない。
ピークを過ぎたからと言って、ただ枯れて行くばかりではなく、
色んなことが可能だ。
ピークが過ぎて行くことは別に悪いことではない。
むしろ一人一人にピークというものが与えられている、と考えた方が良い。
ピークを過ぎると、燃え盛るような新鮮さはもう戻っては来ない。
それなのに、ゆうすけ君は再びピーク時のようなところへ来ている。
これは不思議だし、凄いことだと思う。
自然にピークが終わり、落ち着いて行く分には良いのだけど、
場合によっては何か切っ掛けがあって、ガクンと落ちてしまう人がいる。
今だから言えるが彼にもそんな時期があった。
しんじ君やゆうすけ君の場合、そういう時でも作品に入る時はある程度は、
良いのが描けるという部分がある。
それと、ゆうすけ君の場合はまだ内面から見えて来るものに、
もう一度、行けるかも、という要素があった。
こういう時期は周りの認識が大切になって来るので、
リスクに気がつかない方が良い。
希望を失わないことが大切で、もっというなら楽天的なくらいで良い。
たとえ、以前のテンションまで戻らなくても、良い作品は創れるし、
幸せであることも出来る、そういう在り方を一緒に見つけることが大事だ。
どっちかな、ちょっと行けそうな気もするし、安定の方に行くかも知れないし。
そんな訳で、微妙な時期は誰にも話せないこともある。
話すと影響がでるし、考慮する要素が増えてしまうからだ。
少しでも可能性があるなら、最大限に活かしたい。
少しでも良い時間の記憶は刻みたい。
ピークの時、上れるだけ上った人はピークが過ぎても、安心感が違う。
作品は残るが、もっと大切なプロセスや場は消えて行くもの。
ただし、食べたものが消えて行くのと同じで、
その消えたものが自分の身体を作っている。
前に拾うことが大切だと書いたが、
そういう良い流れやこころの動きを拾って行くことで、
見えなくなって消えて行きそうになっている大切なものが、
再び表に現れるということがある。
ゆうすけ君の作品は奇跡のように再び燃えているが、
以前より深みも増している。
ここに来れて良かった。
これはあくまで信頼関係の上でのこととお断りしておくが、
ある時期は僕がテーマを指定することもあった。
こういうことは普段は絶対しない。
アトリエ・エレマン・プレザンにおいては、指導的な手は一切加えない。
ただ、ここが難しいところなのだが、本人の内なる声を聴き、
時にはあえて踏み込むことで、よりその人が活きてくるなら、
そこは責任を自覚した上で進めなければならない。
単純な話になるが、アニメの絵を写して描きたいと言ってくる人に対して、
一歩、じゃあ頭の中に入れて見ないで描いてみる?
それだけでも絵のみならず、こころの動き方は変わって来るし、
終わった時、本人はこうしておいて良かったと実感する。
そういう経験があるから、彼らもどう?と聞いて来るし、
滅多にないけど、こうしよっか、と僕がいう時、うんいいね、とすぐに答えてくれる。
内面の声を聴いて、信頼関係の中から生まれた作品と、
指導され、描かされた作品とは圧倒的な違いがある。
それは見れば分かることだ。
何度も書いたが、描かされた、と言っても指導されていない絵も含まれる。
その場にある雰囲気や、言葉を発しなくてもいる人の目線、
描かせる、強要する要素は無限にある。
そんなことはともかく、
ゆうすけ君の作品は凄いです。
これこそ絵でしか表現出来ないなにものか。
言葉を超えた感覚の世界であると同時に、普遍に達している。
奥深い内面の世界であると同時に、どこかこの宇宙のようだ。
そこには内も外もない。