2014年7月5日土曜日

場そのものが作品

さて、土曜日のアトリエ。
この1、3週目の土曜日のクラスは午前、午後ともににぎやかなクラスだ。
こういうエネルギーの強いクラスの場合、前半の1時間が重要だ。
制作にも勢いがある。
今日は雨かもしれないが、暑くないので描く環境としては良い。

先週ゆうすけ君が描いた作品が一週間経って、色も大分落ち着いた。
素晴らしい作品だ。これまで見て来たのともまた違う。
一枚の絵の持つ力の凄さを感じさせる。

前回は入魂の作品だったので、普段2枚描く彼も1枚にした。
100枚分の内容だ。勿論、数では語れないが。

前にも書いているが、さとし君やゆうすけ君の作品は特に、
出来たばかりの数時間が一番美しい。
その状態を残せないのは残念だが、しかしそれは制作の場が残せないのと同じ。
それぞれの時間は消え去った訳ではなく、こころの中に刻まれていく。

確かに色のトーンが落ちるという部分も大きいが、
それ以上に彼らの場合、その場、その場の風景に融合して描いている。
季節や天気や、外の光との関係。作家達同士やスタッフのこころの動き。
描き始めの時間と終わりまでのプロセスでの変化。
それら全ての中で、調和して行く。
その結果、その場に最も合った作品が、
その日、その瞬間に最も光る作品が生まれる。
だから、当然出来上がった時がその作品が最も輝く時だ。
それはやはり音楽のようだ。
もう一つ言うなら、出来上がった作品を切り取って見るというのは、
CDで音楽を聴くようなもの。
良い悪いではなくちょっと別のものだ。
色を塗り重ねているうちに、外の景色が薄暗くなって行き、
対応するように光の度合いを強めて行く。
出来た瞬間、薄暗い景色の中で荘厳に輝く色彩が、ぴたっと決まる。
逆に霧のような景色の中で、淡いぼかしたような色が重なり、
徐々に外の景色に光が射して来たその時に、作品が完成される。
外からの光に照らされ、淡い色の作品が景色の中に溶け込む。
まるでその光から自然に生み出された色のように。

よく現場を見に来る方が、セッションを見ているようだ、
と仰るが全くその通りだ。

場というものは、絶えず輝こうとしているし、
そこに入った個人も場の中での自分の最適な位置に行こうとする。
ここには偶然と言う要素も入り、その偶然を一人一人がどう扱って行くのか、
そして、流れや空気をそれぞれが感じ、互いを活かし合う。
音楽でいえば、相手の音を良く聴いて自分の音を出す。
言葉を使わないところでの対話が大切になって来る。

外の音、響き、庭の色の変化、筆の動き、言葉、それぞれが活かし合う。
ある意味で言うなら、一瞬の隙もない。
その一瞬が全体の中での大切な要素になって来るから。
さらにいうなら、何処まで拾うことが出来るのか、と言うことでもある。

そうやってその日の場という作品をみんなで創って行く。
いつも場について書くが、場というのは実態として存在している訳ではない。
その瞬間瞬間に、一人一人の気づきによって創りあげて行くものだ。

今度の展覧会は「楽園としての芸術」つまりは芸術的な環境とも言える。
これを制作の場に限って言うなら作品としての場と言えるし、
同じことになるだろうが、作家達は作品のみならず、生き方も美しい。
(もし様々な環境での無理がなく、本来の状態が保てるならば。)

今日も良い場を。


書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。