2014年7月4日金曜日

マーラー

この前のプレの日、イサとみんなが楽しそうに過ごしている中で、
僕はソファで休んでいたらそのまま寝てしまった。
次の日、ハルコさんが折り紙でソファを作ってくれて、
「はい。サクマさん、これで寝ていいよ」と言ってくれる。
言葉にすると、やさしいなあ、ということだが、もっと深い部分もあって。
とにかく、こういうの良いでしょう。

よく浅いとか深いと書いてしまうけど、
別に深くなければならない、という意味ではない。

ただ事実として深い部分をいっぱい見て行くことが、僕達に要求されている。

物事が良いか悪いかで出来ていたら、こうすればこうなるで出来ていたら、
分かり易いし単純で良い。
でも、ほとんどのことはそうはなっていない。

複雑で情報量も多くて、混沌としている。
そんな現実を見ていると疲れるから、多くの人は単純化して考える。

この前の朝、玄関から男の子の声がして、
雨がどうとか言っている。
時々、こんにちはとか。
声がゆうたに似ているので、あれ、ゆうたかな、どうして東京に?
と思って覗くと、オウムが立っていた。
オウムがこんにちは、という。
言葉までしゃべるのだから、飼い主がいるはずだ。
保護しておきたかったが、すぐに飛んで行ってしまった。

あれだって一体何を示していたのだろうか。

喜びと悲しみが全く別のものだったら、ただ喜びだけを探せば良いだろう。

人の生にはもっと言い表せないほど深い何かがある。
深い部分から逃げたいと言う気持ちと、そこに触れてみたいと言う気持ち、
人にはその両方がある。

美と言うものにしても、ただ美しいだけではない。

ずっと昔、一枚の写真に衝撃をうけた。
僕が最も苦手なものは血だ。見ただけでクラクラしてしまう。
その写真はどこかの神社の儀式を撮っている。
無数の兎と鹿が首を切られて、並んでいる。
生け贄なのだが、想像以上の数だ。
他にも色んな儀礼の道具が並んでいただろうか。
白装束を着た人達が並んでいる。
ゾッとして鳥肌が立った。残酷さも感じた。
だが、それと全く同時に何とも言えない感動があった。
そこには確かに美が存在していた。

ああいう突き上げて来るような感情を何と表現したら良いだろうか。

全く言葉が触れ得ない、あるいは全く何の手がかりもない領域。
論理的には絶対に分析出来ない世界。
そういうものが僕達の根本にはあって、みんな扱いかねている。
でも、どこかでそれに触れなければ、充実感もないことは知っている。

この話はしたくない。本当は。
恩師の信さんの長男が亡くなったころ、
僕は内部に過激すぎる感情を抱えていて、どうすることも出来なかった。
最初で最後の精神的危機に直面していた。
10日間くらいだろうか、いろんなところを逃げ回っていた。
東京で友達の家に行った。そこで本当に小さな音でなっていた音楽。
美しかった。救われたと思った。
あんなに美しいものに触れたことはない。

ならば本当の美に触れる経験は、悲しみや痛ましさや絶望と無縁ではないだろう。

夜、レナードバースタインとイスラエルフィルハーモニーのマーラー9番を聴く。
(最後の第4楽章)
途轍もなく美しく、はかなく、悲しく、痛ましく、そして慈愛に満ちている。
凄いと言うか凄まじい。
掘って掘って、抉って、何処までも深いところに触れようとしている。
いつでも聴くような、また聴こえるような演奏ではない。
音楽でしか表現出来ない、語れない生の深淵に連れられていく。

バーンスタインは実はあまり好きではなかった。
芸術家に必要な厳しさが足りないと思っていた。
もっと自己を律するべきなのではないかと。
でも、この演奏は全く別次元で、それもバーンスタインでなければ出来ないだろう。

時にはこういう深いところまで行かなければならない、と思う。
そして、どれほどそこに痛ましさがあるにせよ、
最後のところでの本当の意味の肯定が、愛がそこにある。
生命は美しいのだと感じる。

逃げずに直視することも大切だ。

それにしても、
世の中で美しいとか楽しいとか言っているものとの次元の違いに驚く。
こういうものもあると言うことを知るのは、
間違いなく素晴らしい経験であると言い切ることは出来る。
でも、みんながみんな、そういう次元に行く必要があるのかは分からない。

良いものが必ず万人に求められるとは限らない。

浅かろうが深かろうが、少なくともお互いを否定してはならない。
良しとする基準を強制してはいけない。それは勧誘と同じだ。

ただ、僕らはどこかで本当のものを切望している。
そしてそこに触れるような深い何かを生み出すことは可能だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。