2014年7月3日木曜日

生き方

霧の中から見える光。
強くなったり弱くなったり。

いつからこの感覚を憶えたのか、もう思い出すことも出来ない。

創造性の源に入って行く時、他では得られない不思議な感覚になる。

昨日は夜、アトリエを応援してくれている、しとみ君と会っていっぱい話した。

話しながら、ああ、あの時の感触と言うか、
雰囲気と言うかそこがなかなか伝わりづらいところなんだろうな、と思った。

良い悪いではないと、最近は感じる。

入って行く時の感覚。
自分が消え入りそうな。

福祉領域の人達ばかりでなく、多くの人は障害を持つ人に接する場面で、
意識的にせよ、無意識的にせよ、上から目線を外すことが出来ない。
これは正義を主張している人達でもそうだ。

そこから見えているものと、僕達の見ているものとはまるで別のものだ。

例えて言ってみれば、こういうことだ。
自分のこととして考えてみれば分かると思うが、
内面の奥深くとか、裸の自分なんてものを人前にさらせるだろうか。
僕の場合で言えば、相手にそれをしてもらわなければならない状況にいつもいる。
だから、自分が正しいとか正義とか、助けてあげようでは、その先には行けない。
むしろ、本当に奥深くまで行く時には、申し訳ないような、
あるいは自分なんかが居てはいけないような気持ちで居る。
だからこそ、中に入れてもらえる。
ノックもせずにぱっと戸を開けようとする人が居るから、カギが閉められる。

本来は誰にも見せないような、もっと言えば自分自身でさえも普段は見ないような、
そんな領域まで一緒に歩いてくれる人達を裏切ることなど出来ない。

静かにそっと、そこに何があり、何が動こうとしているのかを見ようとする。
いいよ、おいで、見せてあげる、と言ってもらえたら、
ゆっくりついて行く。
ほら、もっと先まであるよ。
ここの扉も開けてあげるね、そういうことを言ってもらう。

あるいは、その味も分かるの?だったらもっと美味しいのもあるよ。
あ、もうこのワインも開けちゃおうか。
そんな風にまでしてもらう訳だ。

だから、そんなところまで連れてってもらうためには、
振る舞い方から、気づき方から、色んなものが必要になる。

大切なのはそのセンスなのだと思う。構えと言うか。

毎回、書くことだけど、多くの人は見えているものが全てだと思っているから。
それが全てだったら、感じる必要が無くなる。
だから感じようとしなくなるし、感じなくなる。
僕にとっては見えているものとは、奥にあるものを表す何かだ。
制作の場、創造性、人のこころは特にそうだけど、
何もそればかりではなく世界全体がそういうものなのだと思っている。
言い換えれば、世界観の問題かもしれない。

そこに見えているものしか存在しないと考えるか、
全ては何かを表しているし、何かを語っているものとして、
読み取ろう、感じとろうとし続けるか。
そこに対話があるし、そこにコミニケーションがある。
生きるとは世界と対話することだと思う。

何だって、何かを語りかけて来る。

絶えず、開いていて、感じていて、対話しているか。
今日も生きているか。

制作の場は特殊なものではなく、そういう生き方そのものだと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。