早めに仕事と用事を終わらせて、建物の中に居る。
これから台風ですね。
すっかり暗くなって風も強くなって来ました。
教室日でなくて良かったと思っています。
昨日のブログで上杉さんのことを書いた。
いろいろ思い出していて、一つだけ書いておきたいことがあった。
良い方だったけれど、僕が最も素敵だなと感じたのは打算のなさだった。
シンプルなことだけどこれは大切なことだ。
たとえ稚拙であれ、多くの失敗を重ねようと、
最後のところでは損得勘定を離れた姿勢に人は清々しさを感じる。
世の中はお金がベースになっている以上は、
善意の人がなかなか上手くいかない仕組みになっている。
お金自体が悪い訳ではないが、お金というものは人の醜さを引き出す。
こういう仕組みではずるい人ほど成功することになる。
だから何も成功者が良い訳ではない。
昔から、理想を語ると実現出来るのかなあ、と反応する人が多い。
こういう人達は実現出来るかどうかだけを考える。
実現出来ないことに労力を費やすのは無駄だから、損だからだ。
始めから失敗しないようなことを選んで動く。
世の中では賢いと言われる人達だ。
僕はこの賢いという言葉をずるい、汚いと置き換えたい。
自分がそこから無縁だといういう訳ではない。
誰しもがそういうずるさや汚らしさを持つからこそ、
そうでないようにしたいし、人のそう言う部分が引き出されない環境を創りたい。
損したくない、得をしたいという感情がどれだけ醜いものか、自覚を持つべきだ。
場において自分を顧みないという姿勢だけが、仲間達のこころをうつ。
上杉さんの他にもう一人思い出す人がいる。
以前、イニシャルでこのブログに書かせて頂いた方だ。
僕より10才位上の方だろう。
本当に短い間だけど一緒に仕事をしたことがある。
孤児院のようなところにいる子供達と合宿をした時だ。
このとき、彼と2人で数日間、僕の言葉でいえば一緒に場に入った。
最初は子供達とサッカーをしているところだったか、
彼がみんなの笑い者になっていて、それを楽しんでいるのが分かった。
そしてその場はどんどん輝きだした。
彼は重要なタイミングを見極めると、自分のダメな部分を曝して、
みんなに笑われながら、一人一人が人のどんな部分も肯定出来る雰囲気を創っていた。
その場面を見ながら、場を知っているな、と僕は思った。
それが分かる人はこれまで数人しか出会っていない。
彼は自分を捨てることなんて平気で出来たし、
いつでも喜んで損する気持ちがあった。
僕らはすぐに意気投合した。
そういう人と場に入ると本当に楽しい。
一緒に投げ合って行くと共に音楽を奏でて行くようだ。
場においては一番エネルギーを使う人が一番損するように出来ている。
そこが素晴らしい。
僕らはみんなとコミニケーションをとらなければならないが、
打算はそれをストップさせてしまう。
自分のことを考えた瞬間に繋がりが止まってしまう。
ああ、この人はここまでか、と相手をがっかりさせてしまう。
打算は深いところでの繋がりの中で一番見えてしまうところだ。
この人、自分のことを考えてるな、損したくないな、とか。
明日のことを考えるようでは良くならないのは当たり前だ。
場の中で、自分を考える人を見ていると悲しくなる。
セコいな、ずるいな、ケチだな、という人がほとんどだ。
なんでそこで全部あげないのだろう、と思う。
何もかも失っても良いという覚悟がなければ、場になど入れない。
外からどんなに出来ないレッテルを貼られていようと、
明日を考えないで場に立つ人を見ると、すぐに伝わるものがある。
生きているほとんどの時間が損か得かで出来ていたとしても、
最後のところではこんな世界を大切にしようではないか。
みんなが投げ出し合って、自分を顧みないで、人や場を見つめているとき、
そこで響き合うものの素晴らしさは言葉にできない。
これこそが生きている時間だと感じる。
少なくともそういう時間をこの世の中のどこかには、
ひっそりとでも良いから残して行きたい。