2014年10月15日水曜日

不気味さ

台風が行った後、昨日は良く晴れて暑いくらいだった。
重力が軽くなって空を駆け上って行くような天気で、
ふと安川加寿子のピアノの音が頭をよぎった。

今日は曇り。雨が降ったり止んだり。
そして少し肌寒い。

今日はある感覚について書いてみたい。
それは僕達の仕事とも深く繋がっていることでもあり、
現代という時代とも密接に関わって来る。

「得体が知れない」とか「不気味」というと普通はマイナスのイメージがある。
でも、僕はこのような感覚がとても大切だと思う。

これまで当たり前にしてきたもの、常識や思い込み。
とらわれと言っても良い。
これまで自分が使ってきた枠の中では、
あるいは感覚や知覚では捉えられない次元のものを前にした時、
人はそこに不気味さを感じる。

だとするなら、そういうものにこそ触れて行くべきだ。

何なのか全く分からないのに、それが自分を魅了して離さない。
そんな経験もある。

そして、そういったものに触れて行くことで、何か自分が変わって行く感覚。

芸術と言われている領域にも本来はそのような経験が元にある。

生きていて殆どの時間は、良いか悪いか、幸福か不幸か、
もっと言えば損か得か、そんな世界が大半だ。
そこで何か違うのではないか、世界はもっと別のことを示しているのではないか、
という直感なり、違和感なりが生まれる。

だから人はあえて不可解なもの、得体の知れない不気味なものに近づく。
言い換えれば、新しいものに出会おうとする。

自分にも人にも見たまますぐに分かるような、生き方や仕事は浅い。
かつての価値観が意味を失うような次元、
そこから先に何があるのか全く予想がつかない世界。
そこからが面白い。

最近、僕が聴いている音楽もそういうところがある。
聴いていて惹かれるけれど、それが何なのか全く分からない。
ただこの世界が確実に自分を変えてくれたという自覚はある。

僕の手元に「古道具、その行き先」という展覧会のカタログがある。
ここにのっている物達もまた同じような感覚をもたらす。
確かに美しい。でもその美は得体の知れない何かだ。
それらの物は何も語ってはいない。何も主張してはいない。
何ものでもない何かだ。

それがそれでしかあり得ないような世界。

この前、テレビをつけたらお笑いのコントで一番を決める番組がやっていた。
面白かったし、レベルがあがっている。
でも一番感じたのは、もはや笑わせるという次元を離れてしまっている。
面白い、面白くない、という感覚が遥か先まで行ってしまった。
それは良いことでも悪いことでもなく、
何かを突き進めて行くと必ず、そういうところまで行ってしまう。
日本の笑いというものが歴史的にもここまで進んできて、今の形になったと言える。

何か無意味な世界観であったり、全く取りつく島がないような何かを見せたり。
得体の知れなさ、不気味さ、そしてそこにある未知の気持ち良さ。
ただ大事なのはそこに実在感がなければ芸にならない訳で、
分からないけれど、何かである、それでしか言い表せない何ものかを、
強いリアリティで形に置き換えているものが、様々なジャンルで現れて来る。
笑いも音楽ももうそんなところまで来ている。

この感覚は現代に生きていなければ分からないと思う。
確かにいつの時代もそういった領域に触れているものはあった。
ただ、ここまで身近なところに出て来ることはなかっただろう。

世界は不気味なもので、その得体の知れなさの前で、みんな立ち尽くしている。
どうして良いのか分からないし、ある意味でどうすることも出来ない。
そういう今を様々な表現が示してしまっている。

不可解なものこそ、答えのないものこそ楽しい。
裸になってもう一度、遊びの感覚を取り戻してみよう

危機と可能性は背中合わせだ。
善くも悪くもそんな時代を僕達は生きている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。