今日は雨。
アトリエで打ち合わせがある。
プレのみんなにも久しぶりに会える。
夏の公開制作の真ん中の日に、
尊敬している珈琲屋さんが豆を送って下さった。
凛としていて、身体も心も洗われるような味だった。
こういう仕事をしたい、と強く思った。
清潔で品のある仕事。
しっかりと張りはあっても、柔らかく透明感があるような。
自分はまだまだだと思う。
未だにあるものや人と戦っている部分がある。
戦うのは比較するからであって、そこを超えた所に行かなければならない。
本当のものに近づけた時、良い仕事と思えることを出来た瞬間、
汚い言葉だが、ざまあみろ、という気持ちがどうしてもある。
悔しい想いをずっとしてきたから。
端的に言ったら、僕が出会った人達、今でもずっと関わっている人達が、
ぜんぜん理解されていない。
もっと面白いのに、そしてもっと凄いのに、と思う。
午前のクラスで制作している作家にこんな人がいる。
彼はアトリエに来ると、まず制作の場と廊下とを区切るドアを閉めるのだが、
その時、廊下へ向かって、「おぼえとけよ」と言う。
そのまま椅子に座って紙と絵の具に向かって静かに手を合わせる。
そしてすぐに描き始める。
僕はいつも彼に共感する。
僕も場に入るときはいつでもそんな気持ちだ。
おぼえとけよは、人ってそんなもんじゃないぞ、ということで、
本当のものに僕達は向かって行く、
それが出来る事をこの場で証明してみせるという気持ち。
それから場にたいして感謝と祈りの気持ち。
未だに心ない発言を聞く事がある。
でも、もうそろそろ言い返すのはやめにしたい。
正直に言うなら付き合う時間がもったいない。
これは単なる一例にすぎないが、
しばらく前に作業所の高齢の職員の方が、
絵の具の素材等をもっとこうしたら良い、とかトンチンカンなことを言っていた。
この程度の事は良くある事なので別に腹も立たないが、
もっと大きな話でも同じだ。
そのように思う人は自分でやればいい。
もっと言うなら、やってみせて欲しい。
結果の違いは分かる人には分かる。
外から何かを批判する人の気持ちが本当にわからない。
僕も何かを批判する時はある。
でもそれは自分がやっているからだ。
こちらは形で見せて来た。
それが違うと思う人達は形でそれ以上のものを見せて欲しい。
残念ながら出来ないだろうが。
生きているのだから対話したい。
こう思いませんか、と投げかけたものに対しては、
私はこうですよ、と答えて欲しい。
僕らは場に入ればいつもみんなそうしている。
傍観者のように外から採点する人は一人もいない。
あなたは誰ですか、と聞きたい。
姿形のない人や意見と対話など出来ない。
あの珈琲が教えてくれた事は、美は人を健康にするということだ。
早くそういう世界に行きたい。
良い場も人を健康にする。