「アラヤシキの住人たち」、明日から公開です。
東京アトリエでは少しチケットを販売しますので、
ご興味のある方は制作が終了してからお声をかけて下さい。
今ってゴールデンウィークだったんですね。
今日気がつきました。
今月も終わってしまった。
やるべき仕事は半分近くも残ってしまった。
共働学舎の宮嶋真一郎先生が亡くなった。
生前、僕は宮嶋先生と呼んだことは無い。
メンバーのみんなと同じようにずっと親方と呼んで来た。
92才で、老衰なのだから大往生と言うべきだろう。
この前会った時に信さんから状況は聞いていたので、
覚悟は決めていたつもりだった。
悦子さんから頂いた手紙でも、もうすぐなのだろうと感じていた。
それでも強いショックを受けた。不思議だ。
親方のことはまだ書けないのに、でも今書かなければという気持ちになっている。
仕事は誰かがきっちり継承しなければならない。
そして、正当にこのパイオニアを評価し位置づける必要もあるのではないか。
この2つとも相応しい立場にある方が行うべきだ。
僕には本当に極めて個人的な思い出があるだけだ。
追悼のようなことも書けない。
親方は名前が大きくなることを嫌っていたし、
マスコミ関連の取材はほとんど断っていた。
その仕事の大きさと影響の強さを考えれば、
もっともっと注目されても仕方の無い存在だった。
マザーテレサも評価していたという。
僕が学舎を離れてから各地で出会った色んな人達が、
あの人も、あの人もと言うほど親方の影響をうけていた。
でもその辺りのことは先に書いたように僕には語れない。
僕は親方から仕事を学んだ訳ではなかった。
子供のように育ててもらっただけだ。
そのような人間を一番必要としていた時期に、
一緒に居てくれて、受け入れてくれて、愛情を注いでくれた存在だ。
これまで言わなかったことを一つだけ。
親方と過ごした日々が自分の人生の中で一番幸せな時間でした。
野獣のように戦うことしか知らなかったころに、
ぬくもりを、あたたかさを、安心して昼寝するような時間を教えてくれた。
親方と出会って1年間くらいで一生分の休息を終えたような気がする。
あの頃は親方もずっと母屋に居たから、
他に一緒に居たかった人もいただろうが、
僕は一日中、親方と過ごす日も多かった。
特に休みの日はみんなどこかに出掛ける中で、
することも無く一人でいる僕を気にかけて、ずっと一緒にいてくれた。
あんなに心を許せて、気持ちが通じ合える存在が居た時期があった。
親方には何でも話せるという時代だった。
その後、僕が反抗期に入って行く時、親方がどれほど寂しい思いをしたのか、
考えると申し訳なくて涙が出て来る。
でも、その頃はそれが正しさだと思っていたし、
反抗期であるとは気がつかなかった。
親や家庭に向ける気持ちが、
どこにも無かった僕にとってはあれすら得難い時間だったのだろう。
あんなにしてもらったのに、
最後は生意気しか言わなかったという気持ちは、どうしても残る。
初めて会った時のこと。いきなり何時間も話したっけ。
親方と一緒に居る時、僕が8割、親方は2割の話だった。
今思えば、もっと色んなことを聞いておくべきだった。
時々、教えてくれるエピソードは面白かった。
昔の人の知恵とか、大工や職人さんの話。
外国の話。
2人で話したのは仏教や宗教の話。
それから相撲、クラシックの話。
ベートーベンとドヴォルザークが特に好きだったと思う。
僕にクラシックを聴く時間を教えてくれた祖父もドヴォルザークを良く聴いていた。
僕の祖父はカラヤンにあこがれを抱いていて、
いつも聴かせてくれたけれど、僕はカラヤンのギラギラした音が嫌いだった。
祖父がカラヤンがどれほど凄いか比較のために、
もっと古い指揮者の演奏を交互にかけるのだが、
僕は比較を聴けば聴くほど、過去の演奏家が好きになった。
特にフルトヴェングラーの音は神秘的だった。
親方もカラヤンが嫌いだった。
親方が好きだったベートーベンのピアノソナタの方の田園を今聴いている。
演奏はバックハウス。
予想道理のとりとめの無い文章になってしまった。
親方とは本当に沢山の時間を一緒に過ごしたし、
数限りない話題を話した。
付き添いもした。金沢のホテルにも呼んでもらった。
文通もした。
何を言っても許してくれた。
学舎を離れては戻って来ると言うのを繰り返していたころも、
ずっと待ってくれたし、チャンスを捉えては会ってくれた。
戻る時にはみんなを説得してくれた。
親方が僕を褒めてくれたのは、素直でやさしいということだった。
忘れないでいたい。
いつの頃からだろうか。
親方から自由になりたくなった。
最初は講演等で学舎から親方が居なくなる時間が寂しくて、
他のメンバーと遊ぶようになって行き、
少しづつみんなの面白さや凄さを見つけて行くと、
そっちの方に夢中になった。
親方は僕がみんなのことをどう見るか、楽しみにしてくれたし、
いつも興味を持ってくれた。
でも、僕は親方はこんなことも分からないのか、と生意気を言ったりした。
あんなに歳は離れていたのに、僕の言葉に素直に喜んだり悲しんだりしていた。
いっぱい傷つけてしまった。いっぱい寂しい想いをさせてしまった。
食事の時、親方の隣にいつも座っていたのが、
一つずらし、2つずらし、やがてはテーブルを変え、
最後の方は一番遠くに座るようになっていた。
時々親方は「佐久間君は来ているかい」と誰かに聞いたり、
みんなに聴こえるように聞いていたりすることがあった。
こんな思い出を書いて行くときりがない。
また色々思い出すだろう。
親方、僕はあの時間に戻りたいです。
でも進みます。戻りたいと思える時間が存在することを幸せに感じます。
それを与えてくれた親方に感謝します。
親方と一緒に過ごした間、一緒にその場に居てくれた多くの人達。
みんな居ますか?
片山さん、のぶちゃん、山岸さん、みやしたさんも、まついともこさんも、
そしてたけしも、みんな。
あの頃、一緒に居たみんな。
みんなのことが大好きだった。
そろそろ終わりにしなければならない。
纏まらないのは分かっていて書き始めたのだから。
また書くとは思うけれど、僕なりに一区切りつけます。
これからやるべき仕事があるから。
歩き続けなければならないから。
テニスコート、草むら、スキー場。
山道、見上げた空。
真っ白な雪。
泣いたり笑ったり。
暑い暑い夏。
親方と一緒に食べていたシナモンロールを、今食べたい。
長い間、本当に有り難う御座いました。