寒いですねえ。
また厚着してパソコンの前に居ます。
来週は来客が少し続きそう。
今日はちょっと集中して書いてみたいが、上手く行くかどうか。
作品について色んな見方があるだろう。
まして美術だとか表現だとか言う問題は難しい。
それに最近は特にそうだけど、分析して書く気が起きない。
実感や内面的な経験がそのまま書けるなら、それが一番かな、と思う。
ただ、このアトリエで行われているようなことこそが、
絵や創造性の本質なのではないかと日々感じている。
たくさんの作品が生まれて来る。
その美しさはいつも語って来たことだ。
どこまでも自由で、直感にみちていて、色彩も線もしぶきも、
無限に連鎖され、そして調和して行く。
鋭さとやさしさ。
色彩の輝きの鮮やかさと自然さ。
色同士は響き合い、無限に戯れ合って行く。
神聖な遊びとも言える。
出来上がった作品は止まっているように見えないのが不思議だ。
更に区切られた画面をはみ出して、どこまでも続いているようにも見える。
この純度の高い世界は、作家達が生きて、感じて、見ている世界そのものだ。
僕達スタッフは現場では絵を絵として見てはいない。
あくまで柔らかく変化して行くプロセスそのものに目を向けている。
多くの人がタイトルを手がかりに理解しようとしたり、
ここに何が描いてあるの?とつまらない質問をする。
それは作品を自分の世界に引き下ろして見ようとする行為だ。
作品を解釈すること自体がある意味で無礼な行為であることは事実だ。
必要なのは僕達も同じように感じたり見たりしてみること。
なぞってみることだ。
そうすれば豊かなものを発見出来るだろう。
もっと言えば自分が変わることが出来る。
ボブマーリーのライブCDを聴いた。
これまで聴いて来たものより、テンポもリズムもゆっくりで、
それなのに燃えるような熱さとトランスが感じられた。
良く言うところの呪術的というやつだ。
レゲエを夢中になって聴き出したのは信州にいた時代だ。
あのスローなリズムは謎だった。
波のようで、うねるリズムに酔った。
ゆったりと繰り返されて行く波にやがて巻き込まれて行き、
渦の中で快感を覚えていた。
マーリーも歳とともにスピードが速くなり、リズムも走るようになった。
ロックや様々な音楽や生活の影響もあるだろうが、
多分、体力の衰えが原因だろう。
そして体力が衰えて行くに従って、逆に勢いを感じる。
僕達の現場での仕事も体力が衰えると、力技に頼るようになり、
ある意味で分かりやすい仕事になる。まあ、それはおいておこう。
レゲエの本質を更に追求したジャンルにダブがある。
ダブもレゲエ以上に謎だ。誰も上手く答えを出していない。
僕なりの考えもあるがもう分析したくはない。
ダブもまた感じるものだ。
説明したり分析したりして、自分の世界に近づける行為を否定しているのが、
最初に書いた絵の世界でありダブのメッセージだと思う。
正当に評価されていないジャンルだが、
キングタビーやサイエンティストの作るダブは、
アインシュタインとかピカソくらいの評価を得て良いはずだ。
ダブを聴いていると、固定した世界が崩れ、時空が歪み、
意味がはぎ取られ、時間と空間はどこまでも延びて行く。
すべては波や渦のようで、音や光のようで、響きのようで、
それらが無限に戯れ合っている光景は美しい。
形は形無きものからしか生まれない。
名人という言葉では語れないほどの存在である能楽師友枝喜久夫。
友枝喜久夫の姿が僅かに記録されていることは本当にありがたいこと。
DVDで友枝喜久夫の映像を何度も何度も見て来た。
頭から離れない。
能のイメージに反するあの軽さ。物質感の無さ。
夢幻の中を漂う幻のような身体。
走馬灯のような臨死体験のような舞。
宇宙の姿をなぞるような動作。
有るのに消えている、そして様々な場所に同時にあるような動き。
誰かが操っているようにしか見えないほど自己が消えている。
操っているのは神に違いない。
友枝喜久夫を見ていると、人間はここまで自由になりうるのか、と感じる。
そこには何の限界もないように見える。
すべては透明で、自由で、どこまでも自然で、全宇宙が光り輝いて、
いつでも動き続けているのだ、ということを身体を通じて見せてくれる。
線と色としぶきと、響き合う無限。
人間の根源にある表現は共通している。
友枝喜久夫の後ろにダブが流れていた。
ダブの中で友枝喜久夫が舞っていた。
無限の中。夢幻の中。
ここで日々生まれる絵は、生命の本質、宇宙の本質と直結したものだ。
僕達はいつでもこの源泉から離れることは無い。
さあまた制作の時間へ。