2015年4月15日水曜日

春の朝

光が揺れている。
光がゆらいでいる。

景色が明るくにじむ。

久しぶりに晴れた。

今日はショパンのバラードをかける。
ピアノはフランソワ。
ベートーベンのヴァイオリンコンチェルトも合いそうだが、
ベストな演奏がない。

緑と青と光。それからゆらぎ。

気がつけば、どのくらい場に入って来たことだろう。
浦島太郎のように、後で振り返ると信じられない。
全てが夢の中での出来事のようであり、
むしろ場が実体で帰って来ているこの場所の方こそ夢なのだとも感じる。

それはともかくとしても、
より良いもの、より深いもの、より本当のものを追求する、
と言うのはある意味で僕達のルールではないのか。

そうだよね、と確認していたはずなのに。
ほとんどの人は違う方向へ行ってしまう。
作家達はそのような逃げ方はしない。
そこが素晴らしい。

僕もずっと約束を守って来た。

多くの人が、本当のことから背を向けて、
逃げたり誤摩化したりして行くのは何故だろう。
そして多くの人が飛びついて行く先に何があると言うのだろう。

形で示す。場を創る。
それが僕達がやって来たこと。
いつでも続けること。

良いものは後味だと言ったこともある。
あるいは記憶だとも。
良いものは後で活きて来たりする。
単なる刺激と言うのはその場で終わって行く。

友枝喜久夫の映像を見て、終わってからの方がより見えてくる。
もはや画面を見ていないのに彼は舞っている。
実演を見た人はもっとそうだったに違いない。

この人が死んでいるなんて信じられない。
いや、この世の人にはもともと見えない。

身体から完全に自由になった、夢の中の身体のようで、
操り人形のように動きつつ、コントロールを超えて無心だ。
あえて言えば身体を持つ前の身体みたいな。
変幻自在で夢と現を行き来する。生と死を行き来する。
どんな人にも男にも女にもなれるし、動物にもなれる。
山や海にも、精霊にも神にも仏にもなることが出来る。
そこには何の限界もない。
その動きの中でただただ、自在なるものが柔らかく変化していく。
そして、どこにもとどまらない。

友枝喜久夫が終わることなく舞っている姿。
重力からも他のどんな制約からも解き放たれた動き。
宇宙そのもののような。
そして、僕達の本来の姿はこんな風なのだ、と教えてくれているようだ。

光がゆらぐ。緑の葉や青い空もゆらぐ。
心地良い風。鳥が鳴く。
フランソワのショパン。

今日の平日のクラスもみんなにとって良い時間になるように。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。