曇り。
薄暗い景色の向うから、生暖かい空気の向うから、
うごめく気配が感じられる。
表面に現れているものの奥にあるもの。
半月ぶりに場に入るからだろう。
強く気配が感じられて来る。
身体がそれらを全身でキャッチしようとしているのが分かる。
こうして何も持たずに世界の前で佇む気持ち良さ。
場においても、作品の捉え方においても、
そして生き方においても、僕が表面的だと思うのは、
現れているものの奥にあるものを見ようとしない在り方だ。
僕達は何かをしようとか、何かを手に入れようと必死で、
目の前にある世界の圧倒的な力を見落としている。
場に入れば、必要なのはすることではなく、
いかに従順であれるか、いかに従えるかにつきる。
流れがあり、景色があり、現れて来るものがある。
そして全体を場と言う何かが支配している。
それらの奥にあるのは明らかに自然界の法則であり仕組みだ。
身体の奥にあり身体を動かすものも、
心の奥にあり心を動かすものも、このしくみ以外の何ものでもない。
風に吹かれるように、それらに従順であれるかどうか、そこがすべてだ。
僕達の考えより、この世界は遥かに大きいのだから。
浅い深いと言うことで、いつも言っていることもそういうことだ。
浅いとは形を見ていること、表面を見ていること。
深いとは形にならないすべてを貫く普遍的なしくみを見ていることだ。
このことは自分を見るのか、宇宙を見るのか程の違いがある。
僕達の目の前にあるもの、絶えず現れて来るのも、
それらを動かしているもの。
この言うに言えない動きを、音のような光のような、
形にならない動きを見て行くこと。
響き合うように感応して行くことこそが生きる意味だと思う。
制作の場は最も根源的な形で、生命のしくみを示している。