本格的に寒い日が続く。
体調の悪い人も多い。
もう少し、何とか乗り切ろう。
昨年、東京都美術館でお話しさせて頂いた内容が、
中原さんの丁寧な作業によって纏められた。
こうして形として残して下さったことに深く感謝。
東京都美術館のHPからご覧になれます。
アーカイブのページから「紀要」を開いて下さい。
絵は形として見ることが出来る。僕達の生きているこの世界も。
では、それらの形がどこから来たのかと言えば、
形無きところからとしか言い様がない。
形は、僕達が頭の中で作ったもの、作り続けているものにすぎない。
固定してしまうと本当のものが見えなくなる。
人は自ら限界をつくり出す。
場に立つ時、僕らはいつでも動きを見ている。
決して固定しない。把握しきろうとしない。
だから揺れている。
揺れの中から少しづつ向かう方向を見定めて行く。
どうななるのか、何が起きるのか、全く分からない。
ダブをずっと聴いていると思う。
ダブは震えであり揺れであると。
決して安住しない固定しない、揺れ続け、震え続ける世界である、と。
水のような風のような、流れ動く柔らかな震え。
友枝喜久夫の舞もまた海のようだ。
その動きを見ているとすべては仮のものなのだと実感する。
ここにあるすべてが、固定されたものでも確かなものでもなく、
仮の姿としてそこに在って、やがては変容して行くプロセスにあるのだと。
気がつくと、ここにいる。
でも、確かにあそこにもいたはずだ。
全ては霧の中。
確かにあそこでああしてたはずなのに。
今もまた本当にこうしているのだろうか。
いったいここはどこなのだ。
今から20年くらい前に、ある事に気がついた。
人がそこにいて、その中に心と言うものが動いている。
そこへ入って行くと、見ていたものの見え方が変わるのだと。
今あると思っているものの奥に、もっともっと途方も無い無限があるのだと。
そして、気づけば場に立っていた。
20年という時間は昨日のこと、と言うよりはさっきのこと、
もっと言えば今あったばかりのことのように、そこにいる。
目を閉じて、すぐに開いただけのような感覚。
今でもまた場に立てば、振り出しで、あの入り口の場所にいる。
景色も揺れているし、世界も揺れている。
揺れや震えは決して止まろうとはしない。
色んなものを見せられて、流れに連れ去られて行く。
ずっとずっと遠くまで。
友枝喜久夫の動きを見ていると、本当に全てが走馬灯のように、
通り過ぎて行く。
ここは仮の場所。これは仮の姿。
柔らかくどんな形にも変化して行く空間。
ゆれ、ゆらぎ、ながれ。
夢の中のように柔らかく、そして鮮やか。
そう鮮明なのに、どこにも留まって固まることが無い時間。
制作の場とはそのような時間が流れる地点だ。