2011年8月28日日曜日

教育について考える2

前回は教育についての3つのうちの1つ、制度について書いた。
大事なのは教育の場がサービスを提供する、商売となってはならないということ。
そのためにも先生たちに適切な権威があった方がいいと書いた。
勿論、権威や制度が人を堕落させるケースも多い。
だから考えようだけれど。
ちなみにアトリエ(何度も繰り返すがここは教育の場とは若干異なる)のような場だと権威など邪魔になるだけ。

さて、今回は後の2つ。躾のことと、教育の本論だ。
なぜ、この3つをわけたかと言うと、教育という名の下に語られているものの、
ほとんどが、制度か躾レベルの話だからだ。
制度と躾はそれほど難しいものではない。
当たり前のことを当たり前に、ととのえて、実行するだけでいい。
一番こころをこめなければならないのは、教育の本論、本筋の部分だ。

躾についても制度と同じで、難しい話ではないが、最近は迷う人が多い。
躾けはただ単にルールを教えるのだから、迷ったりしてはならない。
大人が迷うことで、子供も迷うし自信を失う。
叱っていいのでしょうか?と聞かれることもあるが、
子供がルールに反する行動をとったら叱ればいいというより、叱るしか方法はない。
これは当たり前の話だ。最近は躾けが出来ない人が多い。
そとを歩いていても、公共の場で騒いでいる子供に全く無反応な親がいる。
それどころか、親まで一緒になって遊んでいたりする。
僕はそとを歩いていて、何度も子供を叱る場面がある。
その度に、親はびっくりした顔をしたり、露骨に反抗して来たりするが、
その時は親に間違いを指摘する。
子供はルールを知らない。全責任は大人にあるのだ。
子供はルールのない世界から来ている。
だからここは教えていく以外に方法はない。これは分かり易い。
躾けはその瞬間におこなわなければ意味がない。
子供に向かって「なぜ××をしたの?」「今度は絶対ダメよ」と
いうような言葉を繰り返し繰り返し、歩きながら話し続けている人がいた。
あんなのは全く意味がないどころか害がある。
本人は躾けのつもりかもしれないが、子供の目線にたてばただのいじめだ。
その瞬間に叱れば、少しづつ覚えていく。
その場を離れたら持ち越してはいけない。
僕らの場合でも躾けの部分をしなければならない時もある。
僕の場合は短い時間で叱るというのが基本だ。
その瞬間はけっこう厳しく叱るが、すぐに終わる。
後で長々、説明するのは子供にとってもストレスだ。
ダメだと分かればいいのだから。
躾けはルールを教える訳だから、理由を納得させるのにこだわり過ぎない方がいい。
ある部分では決めつけでも仕方がない。
本人の気持ちを尊重しようとするあまり、
ながなが、説明しつづけるのは、子供にとっていやみやいじめになりやすい。
それよりもすぐに終わらせて、それはダメだけど、
一緒に楽しくしようねという部分に早く連れて行ってあげること。
ルールとしてダメを教えるべきで、やっている子供本人をダメと思わせない。
躾けより躾けの後で、ちゃんと出来ている部分を倍以上褒めていくことだ。
叱った子にはその後で充分コミニケーションをとって1人にさせないことも大事。

以前、犬を連れて公園を散歩していると、小学生達と先導する先生たちが集まっていた。
子供たちは元気に走り回っていたが、何かのはずみでケンカがおきたのだろう。
何を壊したとか叫んでいる子がいる。
驚いたのは先生達が、止めてなにがあったのか話を聞くということをしない。
ただ、呆然と見ている。余裕を持ってしばらく見守っているという様子でもない。
ただ呆然としている。
1人の子供は叫び続けている。誰も止めないので収まりがつかなくなったようだ。
そのうち、女性の先生が「○○君、やめなさい」とささやくように言う。
かなり離れた距離からうろうろしながら「やめなさい さめなさい」と繰り返す。
子供はどんどん孤立していって、収集がつかなくなったのだろう。
なにやらものを投げる。
いったいこの人達どうするんだろう。何考えてるんだろう。
誰も解決出来ない(責任を持たない)ことを自ら知った少年が自分で出口を探した。
「おれ、もう帰るぞ」「ダメよ。まだ授業中でしょ」
全く気のない、止める気も、叱る気もない力のない声で、先生がささやき続ける。
本人との距離もかなり離れたままだ。
こういう人達は教師などやってはならない。
あそこまで、子供を孤独にして平気でいられる神経は何処からきたのか。
なぜ、叱りつけて悪いことをしたのだから、帰りなさいと言いきるか、
しっかり抱きとめて、なにがあったか話してごらんと言ってあげられないのか。
なぜ、身体にも指一本触れないのか。
その距離から何がしたいのか。
結局、誰も叱ってもくれないし、やさしく抱きしめてもくれないと悟った少年が、
「おれ帰る」と力なく言ってその場をさった。誰も止めなかった。
少年にはもう先ほどの興奮はない。ただ落胆して疲れている。
僕は犬と歩いていく。
少年に向かって犬がクンクン匂いを嗅ぎながら追いかける。
「これってブルドックですか?」「似てるけど違う。パグっていうんだ」
「おれ、ばあちゃんちが犬飼ってるから、匂いすんのかなあ」「ふーん」
「その角が家なんだ」「ふーん。じゃあまたね」「うん。ありがとう」

とても素直ないい子だった。

制度の問題や、躾の問題を考えさせられる場面だった。

ところで、教育の本論だけど、これは一番難しくも楽しくもある。
正解も答えもないと書いたが、それはこの部分をさす。
制度にも躾にも答えはあるから。

一番大切なのは自分自身が子供としてのこころを取り戻すことにある。
人間とは不思議なもので、1人で「あれがきれい」とか「すばらしい」と
思っても、こころの中はそんなに変化しない。
ところがその「きれい」や「すばらしい」を共有出来る人がいると、
その出来事が自分のこころに入って、学びが生まれて来る。
教育にとって一番大事なのは、教えることではなく、
学び取る姿勢を共有することだ。
自分で発見することの楽しさを知っていくために、
大人は手本とならねばならない。
真っすぐ向き合っていく姿勢を見せることだ。
それは結局、その大人の生き方であり、人間力にかかっている。
生活のすべてが学びの場となっていなければ、
子供に生きる楽しさ素晴らしさを伝えることは出来ない。
要するにごまかしがきかない。
最後は教育というのも、特殊なことではなく、
生きる姿勢そのものと言える。
何を選択し、何を考え、判断し、創造していくのか。
子供はそれらを見ている。
子供自身がどんなに小さなことでも、発見し学び取った時に、
どれだけ共有出来るか。
与えすぎ、教えすぎによって子供をがんじがらめにしてはいけない。
生きていることは、絶えず新しい場面に直面していることだ。
どんな場面でも、そこから吸収し、学び取り、
少しでも良くしていく姿勢やこころの構えを見せていく。
いいことも悪いことも、いっぱいおきる。
その一つ一つに、どういう姿勢で挑んでいくのかを見せていく。
そして一緒に創造していく時間を持つ。
子供も大人も本当は違わない。
知識と技術は、それを使う人間あってのもの。
いかに知識や技術があっても使い方を知らなければ意味がない。
どんなものも、状況も使いこなせる人間とは、
自分の頭で考え、自分の感覚を磨き、絶えず希望を持ち続けて、
良い環境を創れる能力を持つ者だ。
そのような人間をこそ育てていかなければならない。
そのためには、できあいのものではなく、創造する可能性を教えていくことだ。
繰り返すが、正解も答えもない、
可能性に満ちた世界を私たちは生きていく。
その瞬間、瞬間を味わい、幸福を見出していくのは、人間の創造性だ。

ダウン症の人たちに学んでみよう。
絵を描く。
そこには正解なんか有り得ない。
そこに飛び込めるのは、自身の持つこころの調和を信頼し、
感覚を研ぎすまして、新しい発見に身をゆだね、
状況を楽しみ、幸せをみいだす力があるからだ。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。