2011年8月26日金曜日

自然とは

よし子が助産院での自然分娩を選択したので、
体調管理から、毎日のお灸、マッサージ、散歩、ヨガ、食事制限と、
夫としてもやることがいっぱいある。
お腹に子供が出来てから、生活はがらっと変わった。
気付いたのは「自分の力で子供を産むってこんなに大変なんだ」、ということだ。
始めは実は「昔の人は自然に産んでたのに、こんなに色んなことする必要あるの?」
という思いもあった。
それは大きな間違いだったと思う。
昔の人達と現代の人間の生活に違いがあるからだ。
私たちがどれほど不自然で人工的な生活をしているのか、見直す機会でもある。
自然な身体なら自然に産める。
でも現代人の身体は自然からは程遠いという事実。
だから自分で産める力を取り戻す努力は必要。

美しい、快を感じるものは身体にもこころにも良いと書いた事があったが、
これもあくまで、目や耳が毒されていなければの話。
身体もこころも自然さを失っていれば本能は働かない。
合成の味が美味しいと感じてしまう舌は、不自然そのものだ。
本能の感じる「快」と強い刺激によって感じる「快楽」は別のものだ。
本能が「快」を感じるとき、感覚は鋭くなる。それは刺激の対極だ。
刺激によって高まっているとき、実は感覚は麻痺している。
現代は感覚が麻痺するような刺激ばかりが追い求められている。

例えば制作の場でも同じことがいえる。
ダウン症の人たちが本来持っている優れた感性を引き出す訳だけど、
実際には本来的に優れたものを持っているからといって、
ほっておいて良いものが現れる訳がない。
場の作り方から、素材選び、一人一人のこころの動きを見極めて、
一番良い状態で制作に入ってもらうためには、
スタッフとして様々な努力と創造性が要求される。

自然はほうっておいて自然なのではない。
自然の奥に自然の本質を見極め、つかんでこそ、本来の自然がみえる。
エコロジーや自然に帰れと言った主張にはこの考えが不足している。
「型」や儀式について書いたが、それらも自然の奥に入り、
自然の本質を知るというところにある。

染色家の方の書かれた本を読んだ事がある。
花の種類によっては、花の色は花びらからは抽出出来ないらしい。
花びらにあるような色を出そうと思ったら、
花びらになっているものではなくて、樹木の状態から抽出するというお話だった。
これはまさしく目から鱗だった。
花びらから色を感じるのは当然だが、
樹木の状態ですでにその色は内側に存在している。
それを感じ取って触れようとするところに技の意味があるのだろう。

私たちは人口に囲まれ、本能を見失いつつある。
だから危機に直面するし、何をしても充実感を得られないのだ。
自然であること、自然の本質を知ることはそう容易くはない。

でも、自然を見極め自然の中に入っていく時にこそ、人は喜びを感じる。
人は自然から生まれ、自然の中へ帰って行く。
自然を知ることは自分を知ることだ。

ダウン症の人たちの世界が、私たちにヒントを与えてくれる。
人間のこころの中にも自然があると教えてくれる。
もっといえば、自然の奥にあり、自然を自然ならしめている働きが、
人間のこころを構成している。
人のこころも自然も同じものだ。
そこには調和がある。
私たちは早くそのことに気付くべきだろう。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。