2011年8月24日水曜日

「型」について

昨日、肇さん、敬子さん、文香ちゃんで、韮崎大村美術館での搬入を終えました。
展覧会始まります。お時間のある方は是非、ご覧ください。
3人はとんぼ返りで、三重に戻り仕事の続きです。
佐藤家で集合も出来ず、寂しくはありますが、
みんなが良い仕事をしようという思いによって繋がっています。

さて、今回は「型」について。
型ってなんだろう。と思う。
よく型にはまっているとか、固いイメージもあるが、
ここでの結論を先に言うと、「型」はとても大切なもの。
型にはまっているのと、自分の型を持つのは違う。
型とは自分のリズム、呼吸、間合いが形に現れたものだ。
自分の型を持つ事は、自分の事物と関わる姿勢を持っている事だ。

「型」は「様式」と呼ぶ事も出来る。

もう一つ、儀式というものがある。
儀式について考えると、「型」の意味が自ずと分かる。
数年前に、平日のクラスの日にみんなが、
「雛祭りしよう」と言って来た。
「何が必要なの?」と聞くと、紙とか蜜柑とか、色々考えている。
言われるままに、用意をし並べていく。
みんなは雛人形のようなものを作る。
一人一人の作った雛人形を並べて、もっと台がいるとか、
明るいから向きはこっちとか、お供え物がいるとか、
色んな意見が出て、少しづつそれらしくなってくる。
時間をかけてゆっくり作って、みんなで並べ方も、置くものも考えて、
出来上がったのは神棚のようでもあり、個性的な雛人形と果物や、
石や葉っぱやオブジェが並んで、不思議な空間となった。
なにか荘厳な雰囲気さえ漂っている。
雛人形の前でみんなで歌を歌っておしまい。

儀式ってこうやって出来て来たんじゃないかと感じる。
それ以上にここには儀式の本質があると思う。
儀式とは外にある自然や季節を、感じ、味わう手段であると思う。
時間をかける事、手間をかけること、それから、みんなが参加すること。
それによって外の世界が自分の中で、認識出来て吸収出来る。
では何故、自然や季節を自分に取り込むことに、
儀式のような手段が必要なのか。
これは例えば、お葬式を考えれば分かる。
死自体は自然であると言える。
でも人はなかなか、愛する人の死を受け入れ、
自分の中に消化することは難しい。
死を受け入れ、認識していくプロセルが必要となってくる。
それには時の流れと言う重要な要素も必要だ。
儀式とはこのように自分のこころの中に外的現実を受け入れるプロセスと言える。
雛祭りによって、季節が、時がこころの中に認識され、吸収される。

こういった儀式によって、人は世界と繋がる。

「型」も同じようなものだ。
ただ、型はより個人的な要素が強い。

スポーツ選手を見ていると、その競技にそんなに必要ではない動きがある。
素人からするとその動きになんの意味があるのか分からない。
あれは自分の「型」だ。
自分の呼吸、間合いに引き込むための一連の動き。
イチローは毎日、同じ時間に同じことをすると何かで言っていたが、
これも生活の中から自分の「型」を作っていると言える。

僕も昔、様々な障害を持った人達と共に暮らした事がある。
彼らは、私たちの世界からすると、一見荒唐無稽な行動をとる場合がある。
普通の人達が、分からないとか怖いと思う動きにしても、
実は「型」だったりする。(勿論、違う意味のものもある)
よく見ていて、付き合っていくと「型」の意味が分かる。
繰り返すが「型」は現実を認識し、自分の中に入れること。
自分のリズムで世界と向き合い、対話することだ。

自分の型を持つとは、自らのリズムをみつけ、
現実を吸収しながら成長していくことを意味する。

アトリエでも生徒の保護者の中には、
「いつも同じような絵ばかり描いて」と嘆く方もいるが、
その人が自分の「型」によって世界と向き合っていることは、
とてつもなく素晴らしいことだと言いたい。

自立出来ていない、自己が確立出来ていない人には、「型」はない。
「型」があるとは大人であるとか、
自分の仕事や生活を確立しているということだ。

最後に「型」の悪い部分にもふれよう。
今の社会の「型」だ。これは一つの型だけを大事にして、
様々な異なる型の在り方を排除している。
一つの型がすべてではない。
人それぞれの「型」を尊重しよう。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。