2011年8月10日水曜日

スタッフの役割

あつい。夏らしい夏だ。

今日は、僕らの仕事で最も大事な制作の場でのスタッフの役割について書く。
色んな場所で話して来たことだけど、ダウン症の人たちにとっては環境がいのちだ。
環境しだいで持っている資質が現れたり、影をひそめたりする。
よく疑問の声として聞くのが、アトリエ・エレマン・プレザンのメッセージはダウン症の人たちを理想化しすぎているというものだ。特に彼らに身近に接している人達(養護学校の先生や作業所の職員の方、まれに保護者の方や一般の興味のある方等)から、このような疑問の声がある。もっと汚いところも、ずるいところも、難しいところもある人達だと。
人間としてたくさんの面を持っていることも承知しているし、理想化することでイメージが限定される危険も重々分かっている。ただ、一つだけ言いたい。
身近に接していればその人の本質が全て分かる訳ではない。アトリエで発信しているような彼らの理想的な資質がもし感じられないのであれば、可能性について考えてみて欲しい。
彼らは本当に自分らしくあれる場に身を置いているのか。彼らにあった環境に少しでも身を浸す時間が持てているのか。もう一度見直してみるべきだろう。
目を凝らし、耳を澄まさなければ、見えて来ない、聞こえて来ない、繊細で豊かな世界もあることに想いをめぐらせてみてほしい。
環境がいのちと言った。理想的環境に必要な要素は色々ある。
落ち着いたスペース、静けさ、彼らの性質に合った素材や道具。同じリズムや時間感覚を持った仲間。中でも最も重要になってくるのが関わる人間、ここではスタッフの存在だ。
そこでスタッフの役割と仕事についてだが、その前にこれもよく質問されるので補足しておきたい。先ほどの同じリズムを持つ仲間について。
なぜダウン症の人たちだけのアトリエにしているのですかと、よく質問される。
その答えは、さっき書いた彼らが同じようなリズムと時間感覚を持っているからだ。
彼らに無理のないような場を実現するには、他のリズムや時間(その多くは彼らにとってスピードが早く、刺激が強く雑なものだ)を持ち込まないこと。
そこで同じような時間と世界を生きている仲間と場を創る。この場合の同じリズムの人達は彼らの場合、ダウン症の人たちということになる。
中にはダウン症の人たちだけを特殊化することは、他の障害への差別だという人もいるがそれは違う。違いを区別することと差別は全く異なる。
逆にダウン症であることが強調されることで、彼らに対しての差別だという人もいるがこれも違う。彼らの世界は背景を無視しては考えられない。彼らが共通して持っている豊かなセンスを読み取り、活かしていくには背景を考える必要がある。
それぬきに障害も健常もないだとか、みんないっしょだとか、あるいはアートには垣根が無いだとかいうのはそれこそ平等の名の下に違いを押しつぶす暴力だ。
平等とは違いを無くすことではなく、違いを認め尊重出来る事だと思う。
背景を無視したりタブーにしたりすること無く、なぜダウン症の人たちに共通の豊かなセンスがあるのか考えるべきだ。その結果、そのセンスは彼らだけのものでなく我々人類が心の奥の深い部分にもっている能力の一つだという普遍性が見えて来ると思う。

アトリエ・エレマン・プレザンでは、一人一人の制作に、指導的な手は一切加えない。
彼らのこころの動きを遮らない。
これが最も大切な事でスタッフが気をつけていることだ。
では、何もせずに見ていれば作品は勝手に生まれるのか。
残念ながらそうはいかない。
彼らの資質については何度も書いた。確かに彼らは産まれもっての感性を所有している。
ただそれは未だ本人も気付いていないかもしれないものだ。
未だ使われていない部分かもしれない。
彼らは環境や人の雰囲気を感じ取って、その場に溶け込もうとする。
持っている感性が必要とされない場では、自分からこんなのもあるけど使っていい?という風にはならない。自然と使わなくなる。使わなくなると自分でも忘れてしまう。
スタッフは最初から彼らの一番本質的な心の動きに触れていかなければならない。
ここではこの感性を働かせていい、この部分で分かってもらえる、もっと奥にあるものも出していいと、無意識のうちに感じてもらえるようにしなければならない。
制作の場では普段の何倍も敏感になっている。
作家もスタッフも言葉よりもっと深い部分で、感じ合っている。
誰だってはじめて1人で深いところまで入っていくのは怖い。
何もしなくてもついていって「大丈夫。もっといっても大丈夫だよ」という存在は必要だ。
スタッフにはそのような役割もある。
制作の場に入ることはスタッフにとっては、そうとうに身体的、精神的、体力を要する。
相手の心の奥にまで入って行って、同じ景色を見て共有する。
その中でこころや気持ちが通い作品が生まれる。
相手を1人にしてはいけない。この人達付いて来ていないな、今自分は1人だなと感じてしまったら、そこで作品は途切れる。
スタッフが迷いや恐れや不安を感じてはならない。そういったの感情は必ず、感じ取られ、影響を与えてしまう。
人がいれば影響は必ずある。いい影響を与えることが必要だ。
スタッフがいることによって、作家1人では生み出せない程の自分の本質まで入って行けた、という結果にならなければならない。
相手の間と呼吸に入って行くのだから、自分の呼吸は安定した、ほとんど不動のものでなければならない。そうでなければ動き続ける相手の呼吸やリズムを感じ取ることは出来ない。
基本は相手の呼吸に合わせる。あまりに相手の呼吸が乱れ、落ち着かなければ、一度自分の呼吸と間合いに引き込んでから、安定したところで離れて相手のリズムに戻す。
目線と身体の距離はなにがしかの緊張感を与える。
その事に自覚的でなければならない。良い緊張と弛緩のバランスを見極め、使い分ける必要がある。その為に、身体を近づけることと離れること、目線の有無をコントロールする。
細かく書くと、自分でもどんどん難しそうになって来るが、基本はいかに作家と心を通わせられるかだけだと思う。相手と一つになりながら少しだけ離れること。

制作の場でのスタッフの仕事は、一番難しくもあり、楽しくもある。
まだまだ、書くべき内容のところまで来れなかったが、今回は長くなってしまったので続きはまた今度。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。