2011年8月13日土曜日

自立について考える

昨日の夜は、えいた君、てる君、えいこちゃん、けいこちゃんと、
作品の質、量共に勢いのある人達。
相変らず、すばらしい。
保護者の方達からの提案で、アトリエの後にみんなでご飯を食べた。
楽しいひと時だった。
描いたあとにご飯が待っているので、今日はみんな早めに仕上げていく。
でも、さすがに長く続けている人達だけあって、作品の質は衰えない。
1、2枚目まではすごい密度。
3枚目以降は?うーん、ちょっとだけ注意力が落ちてるかな。
でも、たまにはこんな日があってもいい。みんなたくさん楽しんでたし。

昨日来たお客さんは、子供とアートのイベントを企画しようとされている方だった。
雑誌を見て、横浜からはるばる来られた。
アトリエの活動の話と、アドバイスをということだったので、
色々お話ししたけど、はたしてお役に立てただろうか。
先日の展覧会でも会場にお越しいただいた方で、
施設の職員の方も以前アトリエでお話しした。
絵を描く時間があってどのように指導して良いのか分からないとの
相談を受けた事があった。

様々な環境の中で、実践する人、一人一人の自覚が高まり、
よい活動が広がっていくことを願っている。

話をダウン症の人たちに限っても、たくさんの人達との関わりが必要になってくる。
どこか、一つの良い場所があればいいとは思えない。
学校や養護学校の先生、作業所の職員、お医者さん、就職先の人達。
たくさんの場所と人達との関係の中で生きていかなければならない。
一つ一つが彼らにとって良い場になっていくには、
そこに関わる人達の意識の向上が不可欠だ。勿論、僕らも含めて。
アトリエでの経験から伝えるべきところは伝え、社会の様々な場が良くなっていくことを願っている。

保護者の方達を含め、関わる人達にとって一番切実な問題として、
自立というテーマがある。
正直に言って私たちにもまだ、この問題を正面から扱う力は無い。
でも、ここでは一度真剣にこの問題について書いてみたい。
以前、あるシンポジウムに出席した時、障害者の雇用がテーマとなっていた。
参加した全ての団体の代表は、ただひたすら障害(最近は障がいと書くようになったらしいが、なんの意味があるのかサッパリ分からない。漢字をひらがなにして何が変わるのだろうか)を持つ人達を雇用出来る環境を増やす議論を続けていた。
そこでアトリエは「障害者の雇用が100%実現したとしても、問題は解決しないどころか、それによって見えなくなるものも多いのではないか」と提案してみた。
例えば、今の「自立」にしても「就職」や「雇用」にしても
すべて健常者(と呼ばれる人達)の理屈と世界観ではないのか。
それが悪いと言っているのではなく、それだけが全てと言う価値観は危険だと言いたい。
ここには何度も書いて来たけど、ダウン症の人達には共通したセンスがある。
そのことを彼らには、彼ら独自の文化があると考えてみよう。
我々の文化だけが全てなのではない。
自立、就職、雇用というものの、概念自体が我々の文化から来るもので、
彼らの文化を無視して全てを実行して良いのだろうか。
ダウン症の人たちが自分でお金を稼ぐことが完全に出来るようになったとして、
それだけで彼らが生きていけるだろうか。
もっと言えば幸福になれるだろうか。
現時点での僕の見解を述べよう。
彼らが生きていく為には、彼らを取り巻く環境が変わらなければならない。
彼らに一生を通じて関わる人達が増える必要もある。
彼らは一生を通じて人の愛情を必要とするが、そのことは自立していないということではない。彼らなりの自立はある。
私たちはまず、彼らの価値と意味を社会に伝え、次には彼らの生活面での性質を多くの人に知ってもらって、社会の中で彼らの文化が守られる環境を創っていかなければならない。
これは社会全体の問題でもある。
彼らをここまで社会に歩み寄らせているのだから、社会の側も彼らの文化に歩み寄るべきではないだろうか。私たちのアトリエにはボランティアはいない。
彼らから学びたいと思う人が集まっている。
勿論、経済的な問題も考えていくべきだ。
彼らに合ったお金の稼ぎ方を考えて、彼らが正当にお金をてに出来るようにすべきだ。
ただ、それは入口にすぎない。
入口の時点で様々な困難が待ち受けているのだが。

このブログでは福祉について否定的に書いているようにも見えるかもしれないが、
福祉という制度自体は必要なものであるし否定するつもりはさらさらない。
もっともっとたくさんの支援が必要だ。
ただ、福祉の役割は機会や権利の平等であり、僕達は平等の先に彼ら独自の文化をみる。
人間の未来の可能性のヒントをみる。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。