2011年8月12日金曜日

不思議な世界

毎日、恐ろしく暑いけど夏は好きだ。
夜のアトリエも残すところあと三日。

さて今日はたしか来客者ありだった。
アトリエにはたくさんの人がやって来る。ダウン症の人たちの世界や、それを引き出す環境に興味を持ったり、何かのヒントを見つける人は多い。

制作の場では不思議な出来事がいっぱいある。
あんまり話す機会もないので、今日はちょっと不思議な世界の事を書く。
スタッフの役割のところで少しふれたかもしれないが、ダウン症の人達の場合、横に座る人の構えによって作品が変わる。
このこともよく考えてみれば不思議だ。
何もしないでも(何もしなければしないほど)見守る人間の持つ影響は大きい。
制作の場自体がみんなの無意識を表面化し、共有する。
その時間、ある意味でスタッフも含めみんなが一つになっている。
勿論、これはかなりおおざっぱな言い方ではあるけれど。
無意識を共有しているとき、不思議なことはよくあるのだ。
その時はぜんぜん、不思議とも感じなかったりする。
こんなこともあった。
てる君とハルコと僕の関係が特に濃かった時代。
絵のクラスのとき入って来たてる君が最初に言った言葉。
「サクマさんって、オニなの?」
僕はなんのことだか分からず「えっ。オニ」と笑うだけ。
その日はなぜか制作の途中でも
「サクマさんってオニなんだろ」「サクマさんオニなんだよ」と
言いながらニコニコしている。
その他の会話はまったくいつも通り。
そんな日があってしばらくたってから、ハルコのクラスがあった。
その間、ハルコとてる君はどこでも会っていないし、話もしていない。
アトリエに入ってくるなり、誰もいない空間を見てハルコが言った。
「もー。サクマさんオニじゃないってば」

時々、そんなことがある。
展覧会やイベントが続いていた時期、
スタッフと学生で話し合っていた時に「やっぱり制作する現場が一番大事。現場の質を落としてはいけない」という話をしていた。
その日の午後のクラスで登場したゆうすけ君の第一声が、
「もしかして、げーんばかー」だった。
この時はみんな驚いていた。

実際の事件や事故を暗示した言葉が的中して、
後であのとき確か誰々が言ってたよね、ということもある。

自分自身のことでも、その時の行動が何だったのか不思議な時もあるし、
自分の発した言葉に驚くこともある。
制作の場に入っている時は、座った瞬間に、今日は流れが滞っているなと感じたり、重いと感じたりする感覚が働く。
一人一人が、気持ち良くなって、あるいは真剣になって、描くモードに入ってもらうには
スタッフとして流れを感じ、読み取る能力は必須だ。

ある時、自分の殻に閉じこもってしまって流れが止まっている人がいた。
筆も持てないでいる。重いし、何か黒いと感じる。
僕は一瞬だけ場を離れた。
次に部屋に入って来た時に、「よし、閉じている(こころと場が)から前の窓を一つ開けよう」と思う。わざと分かるように、でも静かにゆっくり窓を開ける。
何故か、「よし、開いて、空気が入って、流れた」と思う。
その瞬間、彼女は筆を握って何事も無く描き出した。
僕は当たり前のように他の人の作品を見る。

逆に意識が飛び回っているので空間を閉ざすケースもある。
この時は本当に部屋の戸を閉めたりする。閉ざされると安心する場合もある。

これは少し良く出来すぎた話で、外的な行為が内面的行為と一致する瞬間だ。

1人の作家の制作をぐっと見つめることで、他の作家たちが一段深いところに入っていくこともある。その時、誰が場の空気の中心となるのかを見極めるのは勘だ。

研修生として教室に来ていたミヒロがいたころ。
紙の在庫が無くなってしまって、いつもいい紙は使っているが、いつもより更に高級な紙しか残っていなかった。
朝、紙を確認して僕が話す。
「うーん。今日は全員に傑作を描いてもらうしか無いね。でも本当にそうなるよ。今日はいい作品しか描かない」
その日はみんながいつも以上に優れた作品を描いた。
ミヒロが「本当でしたね。不思議です」と言う。
不自然なことは何もしていない。ただ意識を変えただけ。
でもこれは毎回やってはいけない。
こういうことはたまにあるから楽しい。

まだ身体も小さな女の子。
いつもお母さんに甘える年頃。
制作に入る時、横にいる僕に「ねえ、綺麗なの見せてあげようか」と言った。
今日は甘えるのじゃなくて、逆に母性を発揮したいのだと思う。
僕は自分の意識を子供にする。
すると彼女はお母さんになって、色々教えてくれる。
どんどん包み込まれていく。
「ねえ、わかった?きれいな色いっぱいあるでしょ」
彼女はそんな言葉で制作を締めくくる。
こんなに小さな身体でもこころの中では、あんなに広い母性をもっている。
これは少し種類の違うお話でした。すみません。

じゃあもうひとつだけ、違う種類の話。
調子が悪くなると、妄想が膨らんできて、強迫観念になる人。
作業所の職員が秘密組織のスパイで、自分を狙っているという話になる。
僕は「今日はのるか」と思う。
「よし、分かった。もうそいつ許せないから僕がそいつに言いにいくよ。一緒に行こう」
話しているうちに僕も本気になっていく。
「なんとしても正体を突き止めよう」
僕が本気になって今にも行こうとした時、
「待ってよ。そんな事したらオレがクビになるよ」
「そんなとこクビになったっていいじゃん」
「いやだよ」「でもそいつ絶対、許したらまずいぞ。僕がいくから心配すんな」
「ダメだよ。これは妄想の話だよ」
それから彼は正気に戻ってその話はしなくなった。
その日は表情も見違えるほどよかった。
自分の中に分かっている自分もいる、その自分を使わせてあげればいい。
だけど、これは絶対まねしてはいけない。
巻き込まれて、相手にのまれてしまうと大変なことになる。

彼の、妄想を妄想と分かっている自分や、小さな女の子の大きな母性は
普段使われることの無い、心の奥で眠っている自己の一部なのだろう。
人は関係や環境によって、こころの機能も使える部分しか表面には出てこない。
使えないものは奥の方で眠っているのだ。

制作の場とは、自分の中にある無限の力を掘り起こしていくところだ。
僕たちは一度、深く潜って、そこから宝物を持ち帰ってくる。
そのプロセスの中で、このような少し不思議に思える出来事がおきるのだろう。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。