2011年8月16日火曜日

アートセラピー

ダウン症の人たち専門のアトリエというと、
よく「アートセラピーですか?」と聞かれることがある。
勿論、アートセラピーではない。
では、何が違うのか。
アトリエ・エレマン・プレザン開設の佐藤肇は何かに書いていた。
「アートセラピーは芸術を含まないが、芸術はセラピーを含む」と。

僕自身はアートセラピーに関して、なんの知識も持たないので、
間違っている部分もあるかもしれないが、少し考えてみたい。

アートセラピーとは文字通り、絵画や音楽等の制作やコミニケーションを通して、
治療をおこなう行為であると、まず解釈する。(海外では医療行為として認可されている場合もある。)その際、それぞれの表現は治療が進んでいくプロセスである。
ゴールは病が癒える事であり、動かなかった機能が動き出す事である。
だから、表現されたもの自体はその治療に役立つ手段なのだ。
一定の効果が上がればプロセスとしての作品にはそれほど意味はない。

アトリエにおける制作では作品自体が答えである。
作品は手段ではない。そして、終わりがない。
目的を達成したら終わりということではなく、絶えざる制作がある。
もう一つ制作する人はアトリエにおいて作家であり、
治療されるべき対象でもなければ、何か欠損を埋めなければならない対象でもない。
少なくともそのように見る事が必要になってくる。

ひと言でいえば、目的が異なるのだろう。
アートセラピーの目的は言葉の通り、セラピーにある。
アトリエでの制作の目的は一人一人が本来持っている感性を使うこと。
指導する側が(アトリエでは特別な場合意外、指導という言葉は使わないが)
終わりを設定しているか、いないかという違いもある。

ではアトリエでの制作にセラピーの要素がないかというと、それはある。
このブログでも度々書いて来たが、制作とは一人一人が、
こころの深いところに入っていって、
そこに調和とバランスをつかみとっていく行為と言える。
本来の自分に戻っていくと言ってもいい。(かなり大雑把な言い方ではあるが)
結果としては、こころを病んできていた人が治っていくケースは多い。
それは自分で自分のバランスをとっていく行為だ。
アトリエの場合でいうと、制作に関しては病んでいても健康でも
同じプロセスを進む。
病んでいても描きながら調和を見つけていくし、(そんなに上手くいく場合ばかりではないが)健康でも不安や心配が瞬間にあらわれ、もう一度バランスをつかむ瞬間がある。
スタッフはどんな作家にもその人の一番良い部分をみて、
そこに焦点を絞っている。
制作においては瞬間瞬間が勝負だ。
その瞬間においてはどの人からも、良いものも悪いものも現れる。
良いものがその人の本質であると捉え、良いものに反応し拾っていく。

アートセラピーとは目的も役割も違うものなのだ。
どちらも代用は出来ない。

目的が違うと生まれてくる作品も違ってくる。
作品が違っていると言うことは、
描くときのこころの動きに違いがあるということでもある。

たくさんの制作を見て来たので、絵を見ればそれがどのような環境で、
どのような人達の元で描かれたものなのか、すぐに分かる。
描かされているなという絵もいっぱい見た。

話がそれたが、制作のみに関わらず、病が治るよりも大事な事がある。
病まないことだ。
そして病気になってしまった時にはみんな、必死で治そうとするが、
健康で良い状態のときに、そのテンションを維持するための努力はあまりしない。
良いという状態が続いていくことは、
病気が治ることと同じくらい、まわりの力が必要なことだと思う。

彼らにとって絵を描くことが、自らのリズムを確認し、
自らの間と呼吸、時間の流れに帰り、絶えずバランスを取り戻していく行為であるとしたら、それは本当に大切な時間であると思う。

そして、最近特に反響があるので書くが、彼らの絵には人を癒す力がある。
作品に接して心が洗われたとか、スッキリした、元気が出た、癒されたと、
たくさんの人達に言われて来た。

アートセラピーを、アートによってこころに安らぎを与える行為と考えてみると、
ダウン症の人たちが、私たちや社会全体にアートセラピーしているのかもしれない。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。