2013年3月1日金曜日

無作為

今、これを書き始めて雨が静かに降り出してきた。
今日は暖かかった。
春一番が吹いて、家が少しゆれていた。

アトリエを離れても、みんなとの時間に経験しているやわらかな景色が見える。
どこへ行っても、そこで場にあるような情景に出会う。
誰も彼もがやさしく思える。

ようやく本当のことに少しだけ近づけた気がする。

これだけ汚染物質が飛び交うと困ってしまう。
放射能もそうだけれど、いったいどうすれば良いのだろうか。

でも、どんな時も最善を尽くす以外に道はない。

今日は休みになったので、外へは出ないことにした。
窓からみていても外は本当に静かだった。

DVDで映画を何本か見た。
久しぶりだなあ。
大好きな小津安二郎の中でも一番、二番に好きな「晩春」と「麦秋」。
そこで流れていく景色も「場」で体験しているものと一緒だ。
晩春と麦秋の全体を貫いているのは、慈愛の眼差し。
あるいは、もののあわれ、だろうか。
一つの場面も無駄のものはない。どんな一瞬もかけがえのないものとして、
慈しむように描かれていく。
流れは穏やかでやさしく、でも、その背後には透徹した厳しい眼差しがある。
やさしさと厳しさは一つだ。
繋がりと孤独は一つだ。
小津作品の視線は僕が場に入っている時に見えている景色に限りなく近い。
そこにはあらゆる物事や情景に対する愛と、
消えていく一瞬に対する慈しみと、流れ全体を見通す澄んだ意識がある。
一歩も動かず、動きと一つになる。
流れを見ている眼差しは、命や運命や人生や世界といったものを捉えている。

先日、久しぶりにずっと尊敬している方とお話しした。
違う業界の方だし、ちょっと名前もある方なので、
ご迷惑にならないようにどなたであるのかは書けない。
話題は主に最近の動向についてだったが、
結局、人間にとって何が本質なのかというところまで行ってしまった。
最後は素とか自然とそこから離れてしまっている私達の意識について。
やっぱり、同じようなことを考えられているのだなと感じた。

いつも書いているが、僕達は文明の中にいるのだから、自然には帰れない。
赤ちゃんの頃が一番素晴らしい存在だけど、そこへ戻ることも出来ない。
だからといって失っていって良いという訳でもない。
大切なのはバランスだ。

僕はダウン症の人たちはほぼ理想型に近いと思う。
みんながあんな風になれたら良いとさえ思う。
でも、僕らと彼らの違いは明らかにあるわけで、
そこを一緒にしてしまってはいけない。

僕達がダウンズタウンを創って行きたいと思うのは、
彼らと僕らの理想的な関係を提示したいからだ。
どちらかだけが良いということが言いたい訳ではない。
どんな関係を創れば、人類にとって良い形が見えるのか、それが問題だ。

彼らの魅力を一言で言えば無作為だ。
そして、私達は作為をもってしまっている存在だ。
さて、作為を否定しないで無作為をどう取り入れるか、ここが楽しいわけだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。