最近、ますます頭の中がからっぽだ。
こういう状態は一般的な認識と違って、僕らにとっては良いことだ。
制作の場でも他の部分でも考えに支配されてはならない。
毎日のアトリエもある意味でどんどん良くなっている。
いつも、ゆうたのことが頭にうかぶ。
ゆうたが幸せでいてくれたら、あとは何もいらない。
これからは、ゆうたがどう育ってくれるか、彼の心に何を残せるのか、
そこに賭けていかなければ、と思う。
ここしばらく、何度かメキシコ料理を作ってみた。
まだベストの味は出せていないが、回を重ねるうちに美味しくなっている。
こうして毎年、作家たちと笑いながら季節が変わっていく。
暖かくなれば、また、見えるもの感じるものも変わってくる。
春のアトリエ、夏のアトリエ、秋のアトリエ、冬のアトリエ。
すべてが身体の中に、細胞の奥深くへ入っていく。
一瞬が永遠であるということが比喩ではなく分かる時がある。
どの瞬間も僕の中では生き続けているし、今もある。
本当に美しい場面は、美しい絵と一緒でなくなることはない。
東京のアトリエに来る人達も様々だ。
福祉や教育関係の人達。絵画や芸術表現に関わる人達。
関心にも多様なレベルがある。
作品を見たいと思う人、制作の場を見学したいと思う人、
作家たちに会ってみたいという人、ただ僕と会って話したいという人。
色々だ。
でも、最近は実は一番多いのは、本当の生き方を探している若い人達だ。
僕はずっと場を通して見てきたし、生きてきた。
場から見たもの、教わったものについてしか知らない。
そんな話でも聞きたがる人達がいる。
これまでは、一番深いところまでは言わないようにしてきた。
最後のところにあるものを、見ることが出来る人は実は限られていると思っている。
それに、そんなことを望む人もそう多くはない。
僕が教えても、それはきっかけにすぎないことを理解してほしい。
本当に見るのは自分しかいないのだから。
お話ではなくて、その世界を実際に経験しなければ意味はない。
そこへ行けるのは自分だけだ。
行くかどうかは、自分で決めることだ。
進む以上は後悔しない。自分で決めたことは全部、自分で責任をとる。
その厳しいルールを守れば、世界が何かを見せてくれるだろう。
このささやかな場からでも、人間の本質や世界の根源が見えるのだから、
どんな場所で何をしていようと、
その行為を真剣に謙虚に続けていけば、必ず辿り着くはずだ。
最後には本当のものが見えてくる。
それを見るために僕達は生きているのだろう。
だから、何が見えるの、どんなことが分かるの、と聞いて学ぶことも良いけど、
最後は自分で見るということだ。
そこまで行くのも、見るのも自分なのだから。
そして最後は、「ああ、きれいだねえ」「本当に素晴らしいねえ」と、
美しいなあ、世界も命も、ありがとう、と、
そんな風になれたらいいね。