2013年3月21日木曜日

ハピネス

今日も書こうかな、と時間を確認。
風が強くて、少し寒い日だった。
気がつくと桜も咲いている。

何かが新しく変わって行く。
新しい季節に入る。

先日、海外からのお客様とお話をしていると、
「あなたのお話の中で、ポイントとなる言葉はハピネスだと思いますが、あなたはそこに独自の意味をこめているようにみえます。その意味を教えて下さい」
というようなことを言われて、自分が無意識に使っている言葉に気がついた。
通訳の方を介しての会話なので、細かいニュアンスはお互いに難しい。

確かに僕はアトリエの活動をお話しする時、
一番良く使う言葉に「みんなの幸せ」がある。
幸せという言葉を無意識に、誰もが共有しているものとして使っている。

そう言われて考えてみれば、アトリエでの実践から見えてくる幸せというものと、
一般的に使われている幸せという言葉が同じ概念とは限らない。

なぜ、経済優先ではないのか、なぜ個人の自立だけを第一におかないのか。
更にはなぜ、福祉的な方向性や、治療や教育という方向へ行かないのか。
それらの要素は必要ではあるけれど副次的なものだからだ。
そして、一番目指したいのは「みんなが幸せになること」だ。

でも、このみんなの幸せというのは、いがいと分かりにくいことだ。
幸せということを、誰しもが願っている。
その幸せだけど、人は無意識の内に自分の、個人の幸せを幸せと解釈している。
だから「幸せ」に「みんなの」と付けただけで、
これが特殊な意味を持ったものになってくる。

建前やきれいごとですませてしまえば簡単だけど、
ここを本気で考えて行くと実は結構難しい。

言葉としてならみんなの幸せを考えられるだろうけど、
実感としてみんなの幸せが自分の幸せと感じられるようになるには、
色んなことが分かって来なければならない。

すぐに実感出来るのは自分の幸せだから。
自分が喜ぶこと、嬉しいことが、
他の人を全く犠牲にしないで実現することは難しい。
これは本当だ。
だから、自分だけの幸せを獲得しようとすると、取り合いになる。
競争になる。
そこから先は絶えず比較の世界だ。
誰よりも持っている、誰よりも持っていないという比較が価値基準になってしまう。
そうして行くと終わりがないから、
みんないつまでたっても満たされない。
結局、幸せになれない。

やっぱり、みんなの幸せが、幸せに至る唯一の方法だ。

こんなことはアトリエで絵を描いている人達を見ていて分かることだ。
場が良くならなければ、個人の絵は良くならない。
場が良くなれば、みんなの絵が良くなる。
本当に不思議なくらい。
アトリエの中で誰かだけが笑っているという状況はない。
笑うときはみんな笑う。
みんなが楽しくなれば、一人一人に帰ってくることを、
ここにいる人達は本能的に知っている。
誰も一人で他の人より良い絵を描いて、自分だけ評価されようという人はいない。
みんないつでも一緒で、比較や評価から全く自由になっている。
だから、競うことも争うこともない。

この原理を社会の中で実現出来た時、それが幸福の本当の形だろう。

そんなことを思った。
僕自身もまだまだ自分が満たされることを考えているからこそ。

言葉で言うほど簡単ではないからこそ、みんなの幸せを目指したい。

愛とかやさしさだってそうだけど、
本当はそういう感情が強くなれば、それだけ悲しみも深くなる。
人を深く愛すということは、存在する悲しみを受け入れるということだ。
深く愛して、一人一人の幸せを本当に願っている時、
そこには生きることの悲しさや切なさがあるはずだ。
そこから逃げないことが強さだ。
そういう強さを持ちたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。