今日は冷えますね。
桜がきれいで、時間が止まっているようだ。
昼の光で見る桜も奇麗だけど、夜はひときわ怪しくて良い。
土曜日だったか、夜、雨が降って、僕は傘をさして家の裏の桜を見に行った。
きれいできれいで、そこだけ違う世界だった。
体力的には厳しい時期だ。
そして、僕達は制作が一番のってくる、この期間は本当に神経を使う。
睡眠時間もなるべく多くとる。
一瞬の判断が重要だから、瞬発力が必要だ。
それにしてもこの3週間ほどのところで、作家たちは途轍もない世界を見せてくれた。
美の純度が高まっていくなかで、一体どこまでいくのか、と思う程だ。
作家たちと一緒に深め、のぼりつめて行く。
どんどん純粋になって行く。
そんな中で、低レベルな話題に付き合っていくのは正直、きつい。
こんな言い方をして申し訳なく思うが、
最近、やらなくても良い、何の効果も期待出来ないイベント事で、
ダウン症の人たちのため、とか障害者のため、という活動が多い。
関係ないからほっておけば良いのだけど、そういう人達は絡んでくる。
良いと思っているのだったら、勝手にやっていればいい。
残念ながら、僕はそんな活動を良いとは思えないので仲間にはなれない。
お互い一生懸命、信じた道を進んだ方がいい。
もっともあの人たちに信じるべき何かがあるのか分からないが。
なんだってそうなんだけど、何でもやれば良いというものではない。
前にも書いたが何のために、何をするのか、一度でいいから考えてみることだ。
僕が一番、腹が立つのは、ダウン症の人たちがなめられていると感じることだ。
目線がなめているのだ。
そんなレベルの話ではない、と言っても理解はされない。
だから、淡々と良い仕事をして、良いものを残して、
形で見せて行くしかないのだろうけれど。
僕は未熟で至らないから、レベルの低いものには怒る。
本気でやっているから腹が立つ訳で、適当にやっていれば、
僕だってもっと穏やかかも知れない。
昨日もついつい撮影中の映画監督に怒ってしまった。
撮らないでと言っているところを、撮り続けたというまあ、よくある話なのだけど、
僕には撮られているということよりも、
そんな次元の問題じゃないんだという苛立ちがあった。
「なに撮ってんだ」とつい言ってしまったので、
後でちゃんとお話ししてお互い確認し合ったから、もう何のわだかまりもないが。
見解が違う、立場が違う、それは良いとおもう。
でも、僕がいつも孤立してしまうところは、本気度の違いだ。
お互い本気だったら、みんな本気だったら、いろんな違いが出てきても、
一緒にどこかまでいけるはずだ。
本気になればなるほど、周りとのギャップが生まれてしまう。
それはまだ、僕が未熟だからだ。至らないからだ。
まだ比較しているからだ。
まだ、みんなについてきて欲しいと思っているからだ。
理解されたい、仲間になって欲しいと、どこかで思っているからだ。
本当の世界はそのような甘えを許さない。
真の孤独がそこにある。
僕はまだそこにはいけていない。
だから、人と対立することもある。
ただ、作家たちがいる限り、僕は孤独にはならない。
彼らこそが本当の意味での仲間だ。
昨日のしんじの凄さ。
魂が絵になっている。
この一週間前にまた家で暴れていたとは思えない、平和な美だ。
なぜ、あんなところまで行けるのか、それは誰にも分からない。
予備クラスのすぐる君も良かった。
どんどん透明感が増して行って、やわらかい幻想的な作品が仕上がった。
その時にはこの場所全体がすぐる君の作品の風景になっていた。
あのような世界が描けるのは、あのような世界が見えるからだ。
土曜日のアキ、よしてるも良かった。
よしくんは桜を描いたのだけど、アングルが凄い。
彼の空間把握は特殊なもので面白い。
ゆれながら歩いている、彼の姿とも重なる。
アキの繊細な筆遣い。やさしい色。大胆さと繊細さ。
いつも紙はテープで貼付けて固定してあるのだけど、
試しに時々、テープを貼らないで紙を置く。
アキの場合、それでも紙が全く動かないので、
本人は固定されていないことに気がつかない。
これは手の動かし方に無駄な力が入っていないからで、
素材への適合力を表している。強引さがまるでないのだ。
素材にそって自然に描いて行くから、物を傷つけない。
仕上がった作品も丁寧でやさしい雰囲気だ。
みんなの絵は今ひときわ崇高になっている。
純度も高いし、透明感もある。
そして神秘だ。絵の美しさは、この世界のつくしさ。
世界を見る、目とこころの美しさだ。
色の光り方が違う。
桜も絵も奇麗だ。
怪しいぐらいに色づき、咲き誇り、そして散って行く。
今が一番大切。今しかない。
意識のスピードが上がって行く。
夜は寝る前にまた宇多田ヒカルを聴いた。
孤独な疾走感はこの季節にもあっていて、散って行く桜の淡いピンクがちらつく。